空挺団物語(4)輸送機をどうするか?

□陸軍輸送機の抱えた問題

 航空優先のかけ声が大きかった。ところが、地上絶対という言葉もあった。どんどん拡充しろ、航空は大切だと誰もがいう。ところが、実際の予算の配分や、開発についての経費などの交渉では航空部門が最優先というわけではなかった。

 ところで、第2次大戦のアメリカ陸軍の勝因は・・・というと、諸説あるようだが、「原爆、バズーカ、ジープ、C47」といわれている。原爆は確かに、本土決戦を叫ぶわが国の抗戦意欲にとどめを刺した。バズーカはロケット・ランチャーのことで、歩兵がもった対戦車兵器である。ジープは主に弾薬を前線に運ぶために開発された。そうして、カーチス社の輸送機C47といえば、戦後の自衛隊もお世話になった傑作機である。

 わが国の空中挺進部隊を創設するときに、大きなネックとなったのが輸送機だった。それというのは、元来、陸軍が満洲、シベリヤ方面の大陸作戦だけを考えていたことによる。物資補給などは陸上部隊の仕事と考えて、飛行機はせいぜい前線への緊急物資の補給や、連絡用くらいにしか思っていなかった。

 その結果、せいぜいあり合わせの民間機か、他機種を改造した間に合わせの輸送機でお茶を濁すといった状態が続いてしまった。本格的な新機開発など少しも考えていなかった。まして戦略輸送の重要性など、たとえ一部の先覚者が主張しても、ほとんどかえりみられなかったのである。

▼輸送機の軽視

 大東亜戦争の敗因のいろいろを考えてみると、わが陸空軍の最大弱点は、戦闘機でも爆撃機でもなく輸送機だったと言ってよいのではないか。部内の文書の定義でも、輸送機とは『主トシテ人員資材ノ輸送ニ任ズ』くらいの記述でしかなかった。

戦闘機などは軽戦、重戦、遠戦に分けてそれぞれの定義を確定し、用兵についても言及している。爆撃機もまた同じであり、偵察機も、直協機、軍偵、司偵機とそれぞれが詳しく語られていた。

 まず、輸送機の第1号は1922(大正11)年にドイツから1機が輸入されたユンカースJF6という全金属製の低翼単葉単発機だった。完全密閉式の客室をもち、4人乗りの大型機である。主に高官の輸送に使われたが、のちに担架を2個収容する患者輸送機に改造されている。

 1931(昭和6)年には川崎飛行機がドイツからドルニエ・メルクール病院機を輸入した。満洲事変勃発によって「愛国2号」として陸軍に献納され赤十字マークをつけて満洲で使われた。しかし、前線では大型鈍重であるとされ、やはり高官輸送機となることが多かった。

 軽快な病院機が必要ということから石川島飛行機製作所に英国のデ・ハビランド・フォックスモス機を参考にした機体を作らせた。また、中島飛行機が製造権をもっていたフォッカー・スーパーユニバーサル単発輸送機を陸軍でも購入した。この優秀な輸送機は1937~38年頃まで、飛行団司令部で連絡機として使っていた。

▼キ34 97式輸送機

 1935(昭和10)年頃のことである。中島飛行機にキ16として計画指示が出された。アメリカ製のDC2双発機を基礎とした前線への燃料補給を任とする機体だった。胴体内に燃料を2400リットル、滑油200リットルを搭載して、前線基地の戦闘機6機に同時に燃料補給できるという現在の給油機の先祖にあたるという計画である。結局、DC2の改造にしかならないことがわかり、開発は中止された。

 陸軍が初めて採用した本格的輸送機は1936(昭和11)年に中島飛行機が、民間会社の日本航空のために完成したAT-2をキ34として制式化した97式輸送機だった。しかし、これもまた民間機として完成した機体を、その好成績であったことから購入したものに過ぎない。

 1934(昭和9)年のことだった。中島飛行機では満洲航空会社の定期便として使う中型輸送機として「寿(ことぶき)」発動機双発、運航速度毎時300キロ以上、8~10席の全金属製高速輸送機の開発を同社の設計部に指示した。参考にしたのは海軍が買い入れたノースロップ攻撃機や、中島が国産化する予定のDC2だった。機体名はAT-2という。第1号機は1936(昭和11)年9月に完成し、翌月には満洲で就航した。

 中島では民間型が1937(昭和12)年から40(昭和15)年までに33機生産され、満洲航空、日本航空、中華航空で使われた。一方で陸軍は37年4月に、AT-2をこれまでのスーパーユニバーサルに替わる輸送機として、97式輸送機と命名し、調達を始めた。

 キ34は中島で19機が製造された後に、立川飛行機で生産がされて、その数は280機に及んだ。全幅は19.95メートル、全長15.30メートル、3点姿勢による全高3.90メートル、客室寸法は1700×1400×4800ミリである。自重は総重量で4880キログラム、乗員2名・乗客8~10名、ペイロード340キロというもので、落下傘部隊でも訓練には使われたが、実戦に参加はしなかった。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。