空挺団物語(12) パレンバン(3)──降下成功

▼掩護航空隊の活躍

飛行第64戦隊の活動を檜少佐の体験記からみよう。高度800メートルで戦隊長加藤少佐の編隊群は降下地点の上空を警戒中に最後尾の輸送機を襲おうとするハリケーン戦闘機5機を発見した。すかさず、大谷編隊がこれに向かい1機の墜落を確認する。編隊群はじょじょに高度を上げて2000メートル付近でさらに制空を実行した。

時に1205(午後12時5分)、降下から10分後、次はパレンバン市の方向から敵戦闘機スピットファイア5機、ハリケーン5機を発見する。このうち1機を撃破、白煙を吹き降下したが、追撃はしなかった。降下部隊の掩護が任務だったからだ。
 

 物料投下の第98戦隊の爆撃機群も降下兵とほぼ同じに進入する。爆撃については豊富な経験をもつ戦隊だったが、物料投下は初めてのことである。落下傘が付いた物料箱は爆弾倉の中に懸吊(けんちょう)してあった。大小それぞれ10個ずつくらいの量だった。これを0.5秒間隔で投下することになっていた。前方、後上方と尾部には自衛用の機関銃がある。銃手たちは眼を皿のようにして周囲を警戒している。「どうかなるべく近くに落ちてくれ」、そう祈りながら爆撃手は投下電鍵を握りしめた。

▼降下成功、しかし……

 計画はち密だった。いまの陸上自衛隊も同じで、単位にたとえてミリミリと詰めて行く。落下傘部隊の戦闘は、未知の地形に全員をばらまいたところから始まる。敵からまったく離れたところに降下して、全員が集結して正々堂々と攻撃するならば、集結するところまで決めておけばよい。しかし、パレンバンの作戦はそうはならなかった。正々堂々と攻撃するほどの戦力はない、かといって敵の直上(ちょくじょう)に降下することもできなかったからだ。

 聯隊長の指揮する飛行場強襲隊は二手に分かれていた。聯隊本部と第2中隊の1個小隊、第4中隊は飛行場の東南側約3キロメートル離れた地点に降下する。第2中隊の主力は飛行場の西側約1キロ離れたところに降りて、飛行場を挟撃(きょうげき)する計画だった。飛行場からどれほど離れた地点に降下するかが議論になったが、司令部偵察機が撮影してきた写真をもとに、最適とされた降下場を設定した。

 指示が徹底された。両中隊は物料箱を入手し装備を整え武装を完了し、少なくとも3人が一丸となって飛行場に向かい前進すべし、その途中で各指揮官は部下を掌握せよ。指揮官の掌握下に入れなかった者はどうするか。飛行場の滑走路がL字型になっていて、その角に本部らしい建物があるから、そこに向かって前進せよということだ。

▼敵よりも地形が計画を狂わせた

 製油所急襲隊は、製油所内に降下することは技術上できなかったので、なるべく近くに降下しようとなった。製油所の南方7~800メートルのところに降下場を設定した。製油所の北側にはムシ河が流れていて、二つの製油所の間にはその支流が入りこんでいるので、飛行場制圧隊のように敵を挟撃する態勢がとれなかった。この降下場も湿地のように見えたが、あまり離れたところに降りると、敵に設備を破壊する余裕を与えることになる。そこでとにかく降下したら早めに突入すべしということになった。

 しかし、この計画を大きく狂わせたものは、敵の抵抗より、むしろ地形だったというのは田中氏の回想である。

▼聯隊長の行動と奥本中尉の戦闘

 中沢副官の次に続いて跳んだのは甲村聯隊長であった。順調に降下したが、着地の寸前に落下傘が樹にひっかかり宙吊りになってしまった。さいわい高いところではなかったので無事に地上に降り立つことができた。負傷もない。飛行場の攻撃は部下の2個中隊がやってくれるだろう、聯隊長としてはすぐに基地との連絡をとらねばならない。久米団長も強行着陸に成功しているから、これとも連絡をとらねばならなかった。

 空中写真で計画した予定針路を進んだ。予想外に樹木が繁っていて、前進がはかどらない。1330頃に飛行場の東南方2キロくらいと思われる地点に到達する。そこで第4中隊の三谷中隊長以下を掌握した。このとき、ちょうど、パレンバン市につながる路上で敵と遭遇戦(出会いがしらの戦闘)を行ない、脚に負傷した小隊長奥本中尉(のちの義烈空挺隊長として散華される)と出会うことができた。

 奥本中尉たちの搭乗機、第1編隊106号機の扉に故障が起きた。降下準備の合図で装具をもう一度点検した。異状はなし、膝と足首を曲げ伸ばしして降下に備える。降下用意の合図はブザーの2声、奥本小隊長はドアの把手(とって)を握って開こうとするが動かない。力いっぱい引いてもびくともしない。部下と機上機関係もいっしょになって力を加えるが一向にドアが開かない。そこにブザー1声、パイロットからの降下の合図である。

 それでも扉は動かない。誰かが窓の外を見て叫んだ。「小隊長殿ッ、降下、降下」。編隊は降下を始めた。何秒か経ったと思った時、突然、扉が開いた。奥本中尉は頭から跳び出した。みなその後ろから次々と降下する。

降下地点はパレンバン市に通じるアスファルト道路の近くで、道路の両側は深いジャングル地帯だった。中尉のもとには4人が集まったが、飛行場方面からやってくるトラック4輌に満載された敵兵と出会ってしまう。これに勇敢にも拳銃だけで射撃を加えた。この敵は小銃をもった者が少なかった。戦闘部隊ではなかったらしい。たちまち反転、退却していった。これが降下部隊の最初の戦闘になった。

 ひと息つく間もなく、反対方向から装輪装甲車を先頭にして、4輌のトラックに武装兵を満載した縦隊がやってきた。この敵には手榴弾を投げつけて拳銃で応戦した。降下した部隊の数に動転もしていたのか、敵はあわてて装甲車を捨ててトラックはこれも反転して逃げて行った。ただ、この銃撃戦で2名が戦死する。奥本中尉も脚に負傷した。

 その後、中尉は残った部下を率いて前進すると第4中隊長と出会う。聯隊長以下の兵力とも、そこで会うことができた。

聯隊長は中尉の報告を聞き、パレンバン市からの敵の増援が意外に早いことに憂慮した。そこで三谷中隊長には最短コースで攻撃前進することは止めさせ、パレンバン市に通じる道路上から攻撃するよう指導する。市内には蘭印兵の兵営があったが、飛行場を制圧後に攻撃しようと考えていた。しかし、飛行場付近で守備隊と兵営からの増援の両方と戦う状況に陥ることを思慮しての方針変更だった。

 聯隊長は通信班と予備隊の水野小隊をまだ掌握していなかった。そこで第4中隊とは分かれて飛行場東南角に向かって進んだ。この経路も密林の中で前進にも苦労する。樹木が少しまだらなところに出た。突然、目の前に敵兵が現われる。聯隊長も拳銃で戦い4名を斃した。やがて道路に出ると。そこでも数名の敵に出会った。椎谷曹長は軍刀で1人を斬り倒すが、自分も背後から撃たれて戦死した。

 聯隊長も副官も、みな拳銃で戦うが、道路越しの敵からはゴム林を隔てて高射砲の水平射撃を受けた。死傷者がさらに増える。夕闇が迫るころ、ようやく飛行場東側に進出できた。これより少し前、通信班小牧中尉以下を掌握した。ところが、通信機のほとんどは回収できていなかった。たまたま入手できた器材も破損していた。

 2100(午後9)時ころ、飛行場事務所に着いた。すでに到着していた第4中隊と第2中隊の一部を指揮下において飛行場の占領を指導した。

▼4中隊の降下後の行動

 奥本中尉の搭乗機が扉の故障で降下が遅れたほか、第4中隊は計画通りの場所に降りることができた。地形は予想に反して高さ2メートルくらいの細い樹木が繁るところだった。見通しはせいぜい10メートルから30メートルである。空中からの撮影写真で想像した地形とはまったく違っている。敵の地上兵力とは3キロメートルほど離れているから、まず物料を収集して戦力を整えなければならなかった。そのとき、突然、敵戦闘機が現われ、物料を降ろした落下傘に機銃を撃ちこんでくる。樹に引っかかっている落下傘を下ろそうとすると、しつこく機銃掃射を浴びせてきた。

中隊は大城小隊、奥本小隊、それに機関銃の徳村小隊という編成だったが、大城小隊が最も早く人員と物料を集めて戦力が充実した。それでも降下後2時間がかかっていた。奥本小隊は行方がわからなくなっている。

三谷第4中隊長は飛行場に向かった。大城小隊は全員がそろっているが、ほかの小隊は半数くらいしかついてきていなかった。飛行場も間近だと思ったとたん、突然、大爆音が起きた、誰かが「地雷だ!」と叫んだが、実は至近距離に高射砲があって、これの水平射撃を受けたのである。その陣地の周囲には鉄条網があった。これが1330頃である。いったん後方に退がることにして、そこで聯隊長と会えて、指揮下に入ることができた。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』(並木書房)。

(つづく)