空挺団物語(8)要員の募集と訓練
▼練習員募集
1941(昭和16)年1月には全国の部隊に要員募集の通達が回ったという。ただし、外地にある部隊には末端まで届いていなかった。防諜上の配慮もあり、文書には「機動部隊要員募集」となっていて、別途に「これは落下傘部隊である」という連絡があった。
第1次練習員は全員が下士官だった。もちろん志願である。ただし、航空操縦者に準ずる適性をもつ者という指定があったので、どうやら落下傘部隊とは知らなかったが、かなり高度な、危険な仕事になるだろうという認識はあったらしい。兵科の別は指定がなかったから、(実は昭和15年から兵科区分が廃止されていた)さまざまな兵種の人が集まっていた。2月中旬には約250名が市ヶ谷にあった予科士官学校に集まった。
身体と適性検査を済ませた者に面接を行なったが、落下傘だ、危険だと言い聞かせても多くの人たちは、ますます血気壮んに志望したという。
第1次の志願者は下士官だけだったが、第2次からは兵も含めた。昭和16年のうちに下士官練習員は第5次まで募集をする。これと並行して将校練習員を第4次まで採用した。後述するが、編成はおおよそ将校の1次と2次、下士官兵の第3次までの人間で挺進第1聯隊を、将校の第3次と4次、下士官兵の第4次と5次の者で第2聯隊を編成した。
▼訓練の重点は俊敏性
鉄棒、跳び箱、梁木(りょうぼく)、フープ、マット運動などが中心だった。俊敏性が重要だろうと考えられたからだ。
所沢(現在の入間基地)に移ってからは、飛行船用の大型格納庫の中に施設を造って、着地動作を訓練した。また、有名な多摩川の読売遊園地には民間の落下傘塔があったので、これを借り受けて降下・着地の習熟も行なった。企図秘匿のために、ここへの往復は大学生や専門学校生の服装を使ったので、神田の学生街で古着が不足したという。また、制服を着た偽学生と思われ、警察とトラブルもあったらしい。
この地上訓練は約1カ月で終えて、次は浜松へ移り、三方が原演習場に実降下を行なった。実降下の内容は単独、連続、集団、戦闘の4回、それを終えて訓練を修了した。
▼跳出姿勢の問題
「どんな姿勢が良いものか、誰にも判りませんでした」と偕行の記事にある。のちに第1聯隊中隊長を務める辻田大尉の証言をまとめてみる。「跳出姿勢が開傘(かいさん)に影響があることは当然だが、当時、教官は14名いたけれど、自分の得意とする姿勢でやっていました。勝手にやっていても決め手がなかった。そこで飛行機(AT)に6人ずつ乗って、2機が並んで飛行して、右側の飛行機の者が跳び降りると、左側の飛行機の者はそれを見ていて、あれがいい、あれは危ないなどと批評して、それを参考にして今度は自分がやってみる」というようなことをしながら、だんだんと決まって行った。
水泳のダイビングのように頭から突っ込む。手は45度くらい開いて、万歳するような格好になる。落下傘は胸に着けているから、頭が下の方に回っていったときに脚の方から傘が出て行く。これがいちばん良いとなった。
ところが、その姿勢が決まっても、なかなかうまくできない。水泳の飛び込み競技でも、見事な姿勢がとれるようになるまでには、並大抵の訓練ではないのはよく分かる。そこで飛行機の胴体のような台をつくって、2メートルくらいの高さから跳出訓練を行なった。下にはマットを敷いてその上に着地する。そのときはうまくできた。
しかし、いざ飛行機からとなると、同じようにはいかなかった。まず、風圧があった。それに滞空時間の差である。機胴体(実物大模型)のときには高さ2メートル、つまり空中姿勢は一瞬の間だったが、飛行機からの場合は3秒ほども姿勢を維持しなくてはならない。
その3秒の間に体が回ったり、姿勢がピンと伸びていなかったりすると、自動索が体に巻き付くこともあるし、誘導傘(主傘を引きだす小型の傘)が脇の下から出ることもあったりと危ないこともあった。だから、みな一生懸命に訓練した。
辻田大尉の回想は続く。初めのうち兵器はどこに着けて降りるのか、そんなことまで考えてもいなかった。どうやれば安全に開傘するか、それしか念頭になかった。
▼降下即突撃
挺進部隊の生命は「降下即突撃」とされていた。最初の頃には降りる時には兵器は何も持っていなかった。手榴弾と拳銃、それに短剣(銃剣)だけである。別に投下された物料箱を開いて兵器を出さなければ、通常の戦闘能力はない。それが果たして物料が拾えるかどうかは分からなかった。集合できるかどうかも分からない。
そこで、手榴弾の投擲訓練、拳銃射撃、それに短剣術を中心に訓練を始めることにした。第1聯隊では、射撃や銃剣術と同じように中隊対抗の手榴弾競技会を開いた。拳銃射撃もだいぶ時間をかけた。実弾射撃はそれほどできなかったが、やはりほかの部隊と比べれば大きな成果をあげることができた。
白兵戦(主に銃剣を使った)では、中隊の人的構成をみると、下士官が3分の2を占めていた。兵が残りの3分の1だったわけだ。第1中隊には曹長が17、8名もいた。それも出身が歩兵や騎兵ばかりからではなく各兵科から集まっている。銃剣術など、ほとんどやったことがないという人ばかりだった。短剣術など、あることも知らなかったという下士官兵もいた。
ふつうの歩兵中隊なら曹長などという上級下士官は2、3名であった。しかも、曹長は帯刀したから、ふだんから銃剣など若い頃の記憶しかなかった。落下傘部隊は能力的にもたいへん高い集団だったわけだ。
現在でも銃剣道には短剣道がつきものである。短い竹刀をもっての試合もよく行なわれている。それが昔の陸軍では、とくに訓練もしていなかったらしい。そこで銃剣術と短剣術に重点をおいて訓練を重ねることにした。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。


-1-150x150.png)
-1-150x150.png)
