空挺団物語(6)落下傘の歴史

□「偕行」について

 偕行社(かいこうしゃ)についてお話します。偕行社とは陸軍将校を会員とする研究・親睦団体でした。「偕行」という社名は「偕(とも)に行かむ」から名付けられました。その会の月刊誌が『偕行社記事』です。投稿は自由で、研究心に富んだ若い将校から要職にある高級将校までが、実名や筆名で意見を出したり、反論したり、海外情報を紹介したりと内容はたいへん豊富でした。

陸軍の解体と同時に偕行社も解散しましたが、伝統を重んじる方々が全国に散らばる元陸軍将校に声をかけ、戦後の「偕行会」を支え、雑誌『偕行』を発行し続けました。現在は陸上自衛隊幹部OBの「修親会」と合同して「陸修偕行社」となり機関誌『偕行』を発行しています。わたしも連載の一部を任されて「陸軍史の窓から」と題して、毎号拙稿を載せていただいているところです。

▼落下傘はどう戦場で使われたか?

 興味深い話が見られる。航空本部第1課編制動員担当だった佐藤勝雄さんの、「欧州の方の状況は若干聞いておりましたけれども、落下傘自体についての知識というのは、操縦学生の時におしりの下に敷く落下傘、この性能が分かっているだけです。これは普通の体重の人が跳び降りれば片一方の足や手ぐらいは折れるかもしれないけれども、命に別状ないということを前提に作った操縦者用の落下傘なんです。同乗者用の落下傘もそれとだいたい同じで、とにかく命に別状ない程度の落下傘、それが所沢で教育を受け使っておったというだけですが、落下傘に関する知識だったのです。それからどうしようということで、ない知恵をしぼったわけです」という談話がある。

 ここで語られた落下傘とは2種類、いずれも人体傘だが、緊急時の安全確保のための道具だった。すでに弾着観測用の気球などでは航空機や対空火砲によって撃墜されることがあった。そんなとき、燃える気球の下に吊るされた籠からは観測将校が脱出することも当然である。

 ものの本によると、アメリカ陸軍の大尉が1880(明治13)年にサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークで気球から米国人最初の落下傘降下を行なったという。このときの開傘システムは、気球を覆った網に紐で結びつけられていた落下傘が、降下者が籠から跳び出すと紐が切れて自動で開傘するものだった。

ドイツの女性気球乗りは1893(明治26)年から1909(明治42)年までの間に気球から197回もの降下をした。彼女の場合は落下傘を持って籠から出て、自分で開傘し、着地も自分の脚で降りたという。以下、『落下傘部隊』(秋元実、光人社FM文庫、2009年)の記述に多くを学ばせてもらった。

▼軍用落下傘の始まり

 気球搭乗員用の落下傘は1915(大正4)年の第1次世界大戦で始まった。フランス軍が先覚者で、ロシア軍もこれを追った。大きな事故も起こり、せっかく脱出し着地した人員が風に流されて負傷したこともあった。これは着地後に切り離すことができないという構造だったからだ。これを傘体と人を切り離せるようにしたのが最初の改良である。吊籠用落下傘も開発され、籠ごと降下できるようにもなった。

 1918(大正7)年にはフランス空軍のパイロットが搭乗員用の落下傘を使って、戦闘中に被害を受けた航空機から脱出できた。イギリス軍も気球搭乗員用の落下傘を採用する。ドイツ軍は自動開傘式の背負(せおい)型落下傘を開発した。

 大戦後の1919(大正8)年にはアメリカで自由降下式落下傘の実験に成功する。高度900メートル(600メートルという資料もある)で機体から跳び出し、200メートルの降下をした後に実験者の操作で開傘ができた。

 この落下傘は傘嚢(さんのう)を背負って機外に跳び出し、開傘索を引くとスプリング式の補助傘が飛び出して、それが風をはらんで大型の主傘が引き出されるといった「補助傘開傘式落下傘」でアービング式として有名になった。

▼日本陸海軍の落下傘

 1917(大正6)年には海軍が英国に繋留(けいりゅう)気球を発注するが、これに先立って前年には藤倉工業株式会社(現在の藤倉航装株式会社の前身)に落下傘の研究を命じていた。注文した気球は大正7年に到着するが、海軍は気球隊をつくり、「英式落下傘」という名称で気球に装備した。

 陸軍は1919(大正8)年にフランスから購入した気球は1922(大正11)年頃まで主力気球だったが、緊急時用の落下傘が付いていた。吊籠用落下傘といわれたように、吊籠ごと降下するものだった。1921(大正10)年、千葉県習志野で無人の吊籠を地上からの操作で投下実験を行なった。

 興味深いのは、陸海軍ともに外国からの教授団を招聘したが、海軍が英国センピル飛行教育団の教授科目には落下傘降下があったが、陸軍のフォール大佐航空団にはその科目がなかったことだ。

 英国教師団は神奈川県横須賀の追浜(おっぱま)飛行場で1922(大正11)年3月から落下傘降下教育を開始した。練習生は横須賀海軍航空隊と霞ヶ浦の横須賀航空隊練習部から選ばれた2名の士官と2名の1等水兵の合計4名だった。また、陸軍航空学校と航空局からの依頼で陸軍気球隊付の飯島工兵中尉と民間人が1名加わっていた。

 教育の段階はよく工夫されていた。初めは大型の汽艇に繋留式の気球が載せられるようにし、海上で気球を飛揚(ひよう)させて、そこから海上に降下するようにした。降下地点を海上にしたのは堅い陸上では負傷するおそれが大きいためとされる。次に海上の気球から陸上に降下するようにし、最後に航空機から陸上に降りるようになっていた。この訓練は基礎に5週間、続いて6週目から1週間にわたって霞ヶ浦飛行場で行なわれた。

 4月5日には公開演習が行なわれ成功する。上空には毎秒10メートルから12メートルの風が吹いていたというが、そうした悪条件でも無事故で降下することができた。
 

この海軍の降下演習に参加した飯島工兵中尉は埼玉県所沢の気球隊に帰った。5月17日には陸軍最初の公開降下演習を実施した。この演習は飛行機からの降下ではなく、気球から降下が行なわれた。高度は600メートル、砂嚢を下げた落下傘は4分3秒で着地、続いて中尉が降下、5分1秒後に着地したという。その後、9月1日から月末まで中尉を教官として落下傘教育専修員への教育が行なわれた。

▼わが国初の降下からの生還

 落下傘で事故から無事に帰還したのは、わが国では1928(昭和3)年6月13日の埼玉県入間側付近での民間テストパイロットだった。急降下試験中に空中分解を起こしたのは三菱製の試作機「隼戦闘機」である。中尾純利操縦士は高度4000メートルからの急降下試験を行ない、高度400メートルで突然轟音とともに機体はバラバラになった。

 わずか2日前に落下傘講習を受けただけの中尾操縦士は見事に脱出に成功し、無事生還した。のちに1939(昭和14)年、大東毎日新聞社の「ニッポン号」の機長として世界一周飛行を成し遂げ、戦後は羽田の国際空港長も務めた。(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。