空挺団物語(3)航空優先、地上絶対時代
□いよいよ梅雨明け
なんだか急に梅雨明けになりました。猛烈な暑さがやってきました。みなさま、体調を崩されませんように、ご自愛ください。わたしは日傘をさして、飲料水をぶらさげて歩いています。勤務先から最寄りのJRの駅まで、およそ2キロ半ばかり、25分で着くようにしております。毎日の貴重な運動です。
▼航空勢力充実の時代
「偕行」にはさまざまな回顧録や座談会記録が残されている。中には貴重な、書かれて公表された歴史の裏側にまで手が届くような中身がある。今回は参謀本部第3課(編制)航空班長だった秋山紋次郎氏、航空本部第1課編制動員担当の佐藤勝雄氏、挺進練習部附の田中賢一氏などの回顧座談会をご紹介する。
練習部の創設、つまり作戦部隊の臨時編成部隊は参謀本部で起案した。それを陸軍省の各方面に協議して、上奏裁可することになっていた。それは年度で決まっている動員計画に入らない臨時編成によるものだからだ。
当時、秋山氏は参謀本部第3課にいたが、主務は昭和14(1939)年度の修正航空軍備充実計画の遂行に専念していた。落下傘部隊の編成というようなことは毛頭考えてもいなかった。
▼航空部隊の拡充
日本陸軍航空は、航空兵科の独立以前から大きく増強の一途をたどっていた。とりわけ注目すべきは、1932(昭和7)の「時局兵備改善案」である。これはすぐに気がつくことであるが、満洲国の建国に理由があった。日満共同防衛というが、広大な満ソ国境の警備は日本軍が担うことになった。
在満洲兵備の充実、飛行隊、戦車隊、高射部隊の増加、化学戦学校(習志野)の創設などに精力を注ぐことになる。さらに1935(昭和10)年からは航空防空緊急充備計画の実行に着手した。翌年から5年の予定で計画を実現化しようとしていた。なかでも航空部隊の拡充こそ、最も力を注いだものだった。
航空部隊の勢力は飛行中隊数を見ればわかりやすい。1925(大正14)年の26個中隊からみれば、1933(昭和8)年は36個中隊、40%増に伸びている。その機種別の内訳は、偵察12、戦闘14、軽爆6、重爆4というところである。偵察中隊は33%を占めて、戦闘中隊は39%だった。陸軍航空は偵察、空からの情報収集を重んじていたことが分かる。
当時は空地分離の前であり、飛行部隊は聯隊・大隊・中隊となっている。飛行聯隊は数個中隊で成っていたが、内地と台湾に8個聯隊と気球隊だったが、このとき関東軍飛行隊(新京)が創設された。飛行第10聯隊(偵察3中隊・チチハル)、飛行第11聯隊(戦闘4個中隊・ハルピン)、飛行第12聯隊(軽・重爆各1個中隊・新京)という3個聯隊が生まれたのだった。
爆撃が重視されてきたことにともなって、静岡県浜松に爆撃専修の飛行学校が創設された。また、少年航空兵制度ができ、第1期生は1933(昭和8)年1月に募集され、この教育のために埼玉県所沢に新しい学校が設けられた。
1935(昭和10)年になると、前にも記したように陸軍航空廠が生まれる。航空部隊が拡充すれば、器材の補給修理、燃料弾薬の補給業務が増える。各地に支廠もおかれた。学校は熊谷陸軍飛行学校と航空技術学校が新設された。
軍隊(官衙・学校とは異なる実力組織をいう)では、飛行団司令部が生まれた。各種の飛行部隊の戦力を統合発揮するべき編合部隊ができたのである。飛行中隊数は54個に増えたが、当時はまだ、各師団長や軍司令官の指揮を受けていた。これが航空兵団として内地の各飛行部隊が統一指揮を受けるようになったのは、1936(昭和11)年のことだった。航空兵団長は天皇直隷である。
▼本格的軍備充実
1936(昭和11)年には、陸軍兵力50個師団と航空142個中隊を整備目標とする計画が立てられた。これを当時の中央では、「本格的軍備充実」といった。昭和11年12月3日の陸軍次官から、軍、師団、航空兵団参謀長に大綱が通牒された。なお、このときの陸軍次官は9年後に米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書にサインをした梅津美治郎中将である。
昭和17年度までに整備する戦力は戦時41個師団、飛行142個中隊である。平時兵力は在満洲10個師団、内地と朝鮮に17個師団になった。
重点が置かれたのは航空戦力である。師団の増加数にともなって戦車や山砲、野戦重砲、高射砲や工兵、鉄道、電信、自動車などの軍直轄部隊の増強などがされる。当時は、「航空優先」という言葉が流行ったが、その後には「地上絶対」という言葉がついた。
▼航空優先
1939(昭和14)年の94個中隊は偵察18、戦闘28、軽爆26、重爆21、それに遠爆1個中隊という内訳になる。遠爆というのはおそらく海軍の要請でフィリピンを爆撃できる大型爆撃機である。
これが翌年には116個中隊、戦闘が35、軽爆40の増加が目立つ。1941(昭和16)年には133個中隊の整備が計画されていたのだ。指揮機構としては飛行集団という組織がつくられ、戦略単位として各種飛行団や指揮および情報機関をもって、1方面の作戦を担任することになった。
内地に第1飛行集団がつくられ、満洲の関東軍飛行隊司令部が第2飛行集団司令部に改編された。陸軍航空総監部もできて、航空部隊の教育を統括する役所が生まれ、陸軍士官学校の分校である航空士官学校の創設も正式に決定される。
▼ノモンハンの教訓
軍備充実計画(昭和11年12月策定)は支那事変の勃発(昭和12年7月)で大打撃を受けて、予定通りの進行はできなくなった。そこへもってきて、ノモンハン事件(昭和14年5月)によって陸軍の弱点は大きく現われた。昭和14年12月にはこれまでの41個師団・飛行142個中隊を、65個師団・飛行164個中隊に拡大しようとした。
飛行中隊数は、昭和15年末で105個中隊を16年には148個中隊にしようという計画になる。148個中隊の内訳は、偵察28(約19%)、戦闘48(同32%)、軽爆35(同24%)、重爆32(同22%)、遠爆5(同3%)とした。
この充実計画に没頭していたのが、当時の参謀本部だった。秋山氏が忙しかったことがよくわかる。そこに河島慶吾氏(陸士33期)につながる回想がでてくる。浜松の学校で爆撃の主任教官をしていたところが、1940(昭和15)年11月頃、儀峨(ぎが)学校長に報告に行った。そこで、お前が練習部長をせよと言われたらしい。詳細は陸軍省軍事課長の岩畔大佐の元に言って聞いてこいということだった。
儀峨徹二は当時、中将で浜松飛行学校長、昭和初期には明野飛行学校研究主事、飛行第1聯隊長、熊谷飛行学校長等、第2飛行集団長を歴任した航空草創期の有名人だった。岩畔軍事課長とは、岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)少将のことである(当時は大佐)。岩畔少将はインド独立援助工作などでのちに有名になる人だった。そこで陸軍省で打ち合わせをしたのが、陸軍省軍事課編制班にいた村田謹吾氏と航空本部第1課編制動員担当の佐藤勝雄氏だったという。
次回は輸送機の選定や訓練についての裏話を紹介しよう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。

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