陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(107)自衛隊砲兵史(53) 装甲兵員輸送車(APC)について

□春が来ました

 全国各地から桜の開花宣言が聞こえてきます。桜を見ると、なぜか心が浮き浮きとするのは私だけではないと思います。ライトアップされた夜桜には、どこか妖艶な趣があるというのは友人の1人です。

 上ばかり見とれて桜の見事さばかりに注目しますが、足元を見れば小さな可憐な花々がしっかりと自分を主張しています。まるで、ここにも春は来ているよとも言っているかのようです。花壇の中や、鉢植えになって手入れもされている美しい花々、その他にも道端や荒れ地にも美しい姿を見せてくれています。

 今回は74式装甲車以来、陸自でも姿を見せなくなった装軌式装甲車を調べてみました。

▼「装甲車」とは何か?

 装甲車という言葉には広い意味と、狭い意味があります。広くとらえれば装甲のある車輌はみな装甲車です。戦車から警察で使う装輪装甲車もみな含まれます。しかし、ふつう装甲車というと、戦場で兵員・弾薬・器材などを輸送する比較的軽量な装甲車輌を指しています。

 さらに装軌と装輪の違いがあります。装軌車には大きく2つに分けて「装甲兵員輸送車」と「歩兵装甲戦闘車」の区別が生まれました。前者はアーマード・パーソナル・キャリア(APC)ともいわれます。後者は陸自の89式装甲戦闘車です。メカナイズド・インファントリー・コンバット・ビークル(MICV)といわれ、車上戦闘ができ、対戦車ミサイルや機関砲などを装備しています。

 どちらも歩兵(普通科)が装備、運用するもので、89式M(I)CVなどはクローラーで動きます。大きな機関砲塔などもあるので、観閲式などで行進すると「戦車だ」と誤解する人もおられるようです。詳しい方なら機甲科なら乗員のマフラーがオレンジ、89MCVの乗員のそれは「緋色」であることから、あれ?と思われる方もおられるでしょう。

▼APCの歴史

 第2次世界大戦前までは、歩兵はハダカで戦車に随伴(ずいはん)していました。戦車はどうしても視界が限られ、対戦車兵器をもった敵の歩兵の接近が可能だったからです。ところが、戦車の機動能力が高まってきて、敵からの射撃密度も増えてきます。そこで歩兵も車輌に乗り、なるべく敵前近くまで戦車に追随(ついずい)するようになりました。

 ドイツが第2次大戦の初期に実行した電撃作戦は、まさに戦車と装甲兵員輸送車が一体になった機甲部隊の快進撃だったのでした。

 歩兵が「歩く」ことから車輌を使うようになった初めの頃は、普通の装輪トラックに乗っていました。それが次第に装甲されて、機動力も向上させようと前輪はタイヤ、後部にはクローラーというハーフ・トラックが開発されます。それがさらに機動力の向上と、耐弾性、防護力の強化が要望されて、全装軌式のAPCとして発展しました。

 また、70年代には搭載火器の威力をもっと増して、しかも搭乗した歩兵が乗車したままで戦闘をすることを可能にした歩兵装甲戦闘車に発展します。

 一方でタイヤ装備の装輪装甲車は道路網の整備も進み、車輌能力の向上もあり、軽快な機動性が見直されてきました。陸自にも「82式指揮通信車」、や「96式装輪装甲車」、「化学防護車」、「87式偵察警戒車」などが配備されています。「軽装甲機動車」も歩兵を運ぶ装輪装甲車です。

▼ベトナム戦争で活躍したM113

 ベトナム戦争に関する映画では必ず登場するのが米陸軍のM113です。1962年に採用されて以来、1970年までにおよそ3万台が生産されたといわれます。車体は30~40ミリのアルミ合金で覆われていて、機関銃弾には貫通されず、榴弾砲の破片等からにも安全だったようです。河川や浅い沼などでは浮航することができました。

 エンジンは当初ガソリン209馬力というものでしたが、1964年から215馬力のディーゼルエンジンに換装されました。全備重量が約11トンでしたから、トンあたりの馬力は約20馬力、最高速度は約64キロ/時というものです。搭載する火器はキャリバー50と陸自でも愛称される12.7ミリ重機関銃、弾薬2000発でした。乗員はドライバー以外に歩兵1個分隊(12名)が乗車しました。

▼60式装甲車

 開発名称はSUと呼ばれ、小松製作所と三菱重工が開発に応じて、1957(昭和32)年にはSUIとSUIIと2種類の第1次全体試作が行なわれました。試験の結果はSUIIが採用されて、再び小松と三菱が第2次試作に挑みました。このとき、SUII(改)といわれるようになりました。2社に担当させたのは、生産技術面で共通均一化を図るためと、装甲車輌の複数供給源を確保するためだったと証言が残っています。

 第2次試作では、自走迫撃砲(81ミリ迫撃砲もしくは107ミリ重迫撃砲搭載)型のSV、SXも開発されました。制式化は1960(昭和35)年、以後、1973年までに約460輌が生産されています。SVは60式自走81ミリ迫撃砲、SXは同107ミリ迫撃砲として採用されました。

 車体は防弾鋼板の溶接構造で浮航能力も、NBC(化学・核・生物兵器)防護能力もありませんでした。車内配置は中心に操向装置があり、進行方向から見て右にドライバー席、左に前方銃手席があります。この機関銃は7.62ミリ口径(M1919A4)です。

 2人の乗員席の車体の中心線上に車長席がありました。上面には展望塔があり、6個のピジョン・ブロックで外を視認することができます。その右側後方には、12.7ミリ重機関銃が搭載され、銃手席がありました。左側にはエンジンと変速機を収めた機関室になっています。

 後部は兵員室とされて、片側3席があり、左右合わせて6名が乗車しました。後部右ドアの上には細いスリットがあり、他に外部を見る手段はなかったのです。兵員室の上部には5枚のハッチがあり、大型の1枚は前方に、小型の4枚は左右に開くことができました。後部ドアはいわゆる左右に開く観音扉で、地面につなげるランプ板はありません。

 重量は11.8トン、車体長5メートル、幅2.4メートル、車高1.89メートル、最低地上高400ミリ、出力220馬力空冷4サイクル8気筒ディーゼルエンジンを積み、最高速度は45キロ/時、10人乗り、航続距離300キロで61式戦車と行動を共にする装甲車でした。

次回はいよいよ73式装甲車と74式戦車について語ります。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。