空挺団物語(7)降下用落下傘の開発

2025年8月18日

▼座布団式の97式

 陸軍は操縦者用にはアメリカ製のアービング式、同乗者用にはイタリアのサルバトール式の各落下傘を採用することにした。アービング式は操縦者が腰に吊るして、機上では腰の下に敷く座布団形式だった。これを1号落下傘とした。この改良型が97式落下傘である。

 サルバトール式は幅広のベルトを腹に巻き付けて落下傘を背中に背負う型だった。機上作業にはこれが不便だとされて、改良して国産化した2号1型落下傘が完成した。これは胸に付けるタイプだったが、着脱が容易で、機上作業では縛帯(ばくたい)だけを着け、傘体は外して機内に置いた。非常時には胸部の環にかけて跳び出すようになっていた。その後、改良が続き、1932(昭和7)年には92式2号落下傘と制式化された。

 97式には自動索が付いていた。その索の一端(ナス環)を機体のどこかに掛けておいて跳出(ちょうしゅつ)すると(陸軍では降下を跳出という)、自動索が伸びきったところで落下傘を包んでいた外嚢(がいのう)が外れた。すると中から小さな誘導傘(それを当時は予備傘といった)が飛び出して、これが主傘を曳き出すという仕組みになっていた。自動索の他に手動索も付いていて、空中でこれを引けば、自動と同じように傘が開いた。

▼部長自ら降下して92式改良に

 練習部長河島慶吾中佐(陸士33期)と副部長格だった高(正確にははしごだか)橋芳太郎大尉(少尉候補者17期)、この2人が操縦者だったから、なんとなく97式を選んだらしい。ここからは「偕行」の座談会記録を材料にしよう。

 苦情が出た。部長も高(正確にははしごだか)橋大尉も降下する、続いて将校達が次々に初体験に挑んだ。すると、着地の時の衝撃が半端ではない。だいたい、97式は非常脱出用の救命傘なのだから、脚の1本くらい折れても命が助かればいいという設計思想だった。これには筒井中尉や奥山中尉などの「重量級」の人たちからとくに文句が出た。

 これに比べて92式同乗者用は傘体がやや大きく、したがって降下速度が遅く、都合が良かった。これは爆撃機の機上射手や航法手、偵察者などの操縦者以外の人が使う前掛け式のものである。ふだんは機内に置いておいて、非常時には縛帯の胸の環にかけて跳出するというものだった。開傘の原理は97式と同じで、機体のどこかに7メートルの自動索のナス環をかけて跳出し、自動索が伸びきると外嚢の留め金が外れる。すると、4本の骨があるコウモリ傘のような誘導傘が飛び出して、主傘の傘頂部につないであるので、傘頂部から順に主傘を引っ張り出すといった構造である。

▼唐瀬原から新田原へ

 1941(昭和16)年9月には、練習部は満洲の白城子飛行学校から宮崎県児湯(こゆ)郡新富町の新田原(にゅうたばる)に移った。この白城子に決まったことについては興味深い話がある。当時の東條陸軍大臣の強引な選定だったという。航空本部は猛反対、器材の研究、改善にも内地からの距離がありすぎた。採用した人員を白城子で養成するにしても、全軍から採用した者たちをいちいち白城子に移動させるのも大変だという。

 とにかく東條陸相以外はみな反対だった。栃木県宇都宮や那須付近、新田原、児湯郡川南町唐瀬原(からせばる)など4つも候補地があった。満洲というのは企図秘匿(きとひとく)のためというが、唐瀬原でも日豊本線の警戒・監視をすれば外国人による調査活動阻止に問題はないという意見も大きかった。唐瀬原には広大な敷地を誇る高鍋軍馬補充部支部があった。そこを譲ってもらいたいと希望を出した。

 軍馬補充部を無くしたり、配置替えしたりは陸軍大臣の権限だった。陸軍省軍事課から筋を通して、高鍋の軍馬補充部支部の川南分廐(ぶんきゅう)を廃止して、その用地を航空本部に保管転換するといった手を使った。軍事課長、軍務局長、陸軍次官を通して大臣に移転を認めてもらうようにした。

 どうやら移転承認は南方作戦の時期との関わりもあったようだ。8月末になったら海軍は降下練習を行ない、実戦ではメナドへの降下を行なうらしいという情報があった。陸軍もまた初降下はパレンバンとなっていたので、とにかく準備のためにも早く便のよいところへという気運が高まっていた。

 唐瀬原には飛行場がなくても、すぐそばの新田原から飛行機を飛ばせばいいと考えられた。すでに新田原には飛行場がほぼできていたことも有利に働いた。9月の初めには、白城子からの移転は成功することになった。

▼一式落下傘

 この移転のとき、練習部に交付されたのが新型の1式落下傘である。この落下傘は背負式の主傘と胸掛式の予備傘で構成された。予備傘は主傘が開かなかった場合の緊急用小型落下傘である。主傘は自動式だから手動では開けない。対して胸に抱えた予備傘は手動でしか開かない。手動索を引く、誘導傘が飛び出す、傘体を引きだすという構造だった。

 1935(昭和10)年頃だった。物料傘(ぶつりょうさん)を開発した。満洲事変では、地上部隊の前進が速い時、物資の追送にずいぶん困った。そこで航空機からの物量投下が必要になったという。

 当時は年度の初めに各種予算を要求したが、年度の終わりになると予算が余ったが必要かという声が届き、その7、8000円くらいを物料傘の開発に使うことになった(航空技術研究所出川技師の回顧)。

 初期には航空機の翼の下に、爆弾と同じようにむき出しに物料を吊るしたが、爆弾倉ができてから、投下する物料も形がきちんとしなければならなくなった。落下傘も30キロ、50キロ用と規格化された。そのときの物料傘の開傘方式が「自動索付仮縛式」だった。

 欧州大戦のドイツ軍空挺部隊の活躍から人体用の傘の開発が始まった。昭和15年に予算がついて、藤倉工業に試作をさせて研究を始めた。16年の8月頃に試験が完了し、紀元2601年ということから一式落下傘となる。予備傘も藤倉工業のアイデアで、緊急時だから片足が折れても仕方ないということから傘の面積が30平方メートルくらい(主傘は約40~45平方メートル)だった。

 唐瀬原を挺身隊員たちは「川南」といった。ここから一式落下傘による訓練が始まった。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。