空挺団物語(2)ソ連赤軍とドイツ
□ご挨拶
西日本の各地では梅雨明け宣言が出されたとか。いつもより3週間も早いとのことで、東日本でも梅雨前線は遠く太平洋上にあるようです。これが戻ってくると、少しは雨があるそうですが大気が不安定になるくらいで、連日の雨模様というようにはならないのでしょう。
大きな目で見ると温暖化なのでしょうか。とにかく連日の猛暑には熱中症の注意が必要です。わたしも「父の日」に娘がくれた晴雨兼用の傘を使います。「日傘男子」とか目立ったのはもう3年も前になるそうです。今はそれほど目立つこともなく、多くの男性が直射日光から守られています。
日傘は女性がかざすもの、そうした見方が変わってきていますね。
▼ドイツ再軍備
ヒトラーの快進撃は1939(昭和14)年に始まった。その準備がされたのは表向きには、「ベルサイユ条約」の軍備制限事項の廃棄を宣言したときである。制限事項は兵力10万人でしかなく、戦車や航空機ももつことを許されていなかった。ヒトラー政権がこれを廃棄したのは1935(昭和10)年のことだった。
それからほぼ4年、1939年にはドイツ空挺部隊は華々しく登場する。日・米・英ともそれに刺激されて、あわてて落下傘部隊を整備するようになった。わが陸軍も1940(昭和15)年12月に研究を始めたのは、前回、紹介したとおりである。
▼先覚者、ソ連赤軍
ロシア革命によってロマノフ王朝が滅びた。ソビエト連邦が生まれたのは1923(大正12)年のことだった。ソ連赤軍の歴史もそこから始まる。新しい軍隊は発想も自由であり、着想もまた奇抜だった。1932(昭和7)年頃から落下傘部隊をつくり始める。
まず、各地に落下傘塔を設けて、それで練習するクラブを開設した。スポーツとしての落下傘降下の楽しさを多くの若者たちに知らせたのである。そのねらいは、将来の落下傘兵の予備員養成だった。
1935(昭和10)年には、すでに空挺師団の編成を終えて、大演習も行なっていた。ただし、そこで研究、演練していたのは戦術的な用法ではなかった。ここでいう戦術的用法とは、降下部隊の規模は大隊や聯隊で行ない、要点を奪取させるという使い方である。
ソ連は戦略的な用法を主に考えていた。まず、有力な落下傘部隊を降下させ、飛行場や飛行場に適する地を占領させて、そこに大兵力の師団を空輸着陸させるといったものだった。戦略的用法とは、こうして敵の後方や、それまで戦場ではなかったところに、まったく新たな戦線を築くといった画期的な運用のことである。
▼ドイツの再軍備計画
よく知られているように、ドイツの再軍備計画はソ連の協力で着々と進められていた。とりわけ戦車の開発やその運用等については、1926(大正15)年以来、ソ連国内で秘密裡に行なわれている。ソ連も当然、そのバーターとして、ドイツの各種技術を学んでいたのだった。
ヒトラーが政権を取ったのは1933(昭和8)年のことだったが、ソ連との友好は反ベルサイユ体制ということで一致していたから、ソ連との技術提携もまた順調に進んでいたことだろう。文献には戦車のことだけだが、落下傘部隊についてもドイツ軍が見逃したはずはない。
ドイツはおそらくソ連の示唆を受けたのだろう。1935(昭和10)年から落下傘部隊をつくり始めた。ソ連よりも3年遅く、日・英・米より5年も早かった。1939年には空軍所属の空挺師団をもった。この年に始まったのが第2次世界大戦である。
▼昭和14年の出来事
1939(昭和14)年の国内外情勢を整理しておこう。3月15日、ドイツ軍がプラハに入城する。前年9月にはミュンヘン協定が結ばれ、英仏は戦争回避のためにヒトラーの要求をのんだ。チェコ西部のズデーデン地方の割譲と、スロバキアへの自治権付与を承認した。さらにポーランドとハンガリーにも領土の一部を奪われて、チェコスロバキアは国家的統一を失いつつあった。ドイツ軍の侵攻とともに16日にはスロバキアはドイツの「保護下」で独立してチェコスロバキア共和国は崩壊した。
4月1日にはスペイン内乱が終結する。3年にわたる内乱は、ドイツ・イタリアの支援を受けたフランコ将軍の勝利で終わった。7月は英国がパレスチナへのユダヤ人移民を6カ月間にわたって禁止した。当時、英国の委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人がそれぞれ居住権を主張して対立していた。とくにこの数年にわたり、ナチスドイツの迫害から逃れるためにユダヤ人が続々とパレスチナに移住している。アラブ側は民族的政府の樹立も求め、複雑な様相を示していたのである。
5月11日には満洲国とモンゴル人民共和国の間で衝突が起きた。満洲軍・日本関東軍とソ連軍・モンゴル軍との戦いに発展し、8月20日にはソ連軍の大攻勢が始まり、わが軍は9月1日に停戦申し入れをし、15日に停戦協定が成立した。
▼大戦が勃発する
9月1日の早朝、バルト海の要港だったダンツィヒ(現ダダニスク)の沖に碇泊中のドイツの練習艦が突然、ヴェステルプラッテ要塞に砲撃を加えた。同じ頃ドイツ機甲師団はポーランド領内になだれ込み、ドイツ空軍爆撃機が首都ワルシャワを目指していた。先制第一主義でポーランド空軍はほとんどの兵力を失い、制空権はあっという間にドイツのものとなった。国境全線で同時防衛を敢行し、英仏の援軍到着まで時間を稼ごうとしたポーランド軍の作戦は現実離れしたものだった。
4日にはポーランド政府は首都ワルシャワを離れ、17日には8月23日に締結した「独ソ不可侵条約」の付属議定書に基づいてソ連軍が侵入した。ポーランド西部はドイツ軍、東部はソ連軍によって占領されてしまった。大統領と軍最高指揮官はルーマニアに亡命した。27日には市長の指揮で戦ったワルシャワも陥落する。28日には独ソ両国による分割が完了した。このとき、少数のドイツ落下傘兵が戦線後方のかく乱などのために降下したそうだが、大きな戦果があったとは記録されていない。
3日には英仏がついにドイツに宣戦を布告する。
▼グライダーの採用
発足当時のドイツ空軍空挺師団では降下兵は軽装備だけで地上に降りた。火砲などの重装備は輸送機に搭載して、敵の飛行場や着陸適地を確保してから運び込むことにしていた。時期ははっきりしないが、ドイツの空挺部隊は1940年になるとグライダーを採用した。このグライダーの長所は、野外に強行着陸することができ、火砲や小型トラックまで搭載できることだった。
ここでもまた、政府の若者たちへのグライダー操縦奨励策が役に立っていた。教育の場でも機関でも、大空への夢を持たせるグライダークラブの開設がされていった。それなりの慣熟が必要なグライダーパイロットの養成が、平時から計画されていたのである。
なお、これまでの記述は多くを『大いなる賭け』(田中賢一、学陽書房、1978年)にお世話になった。田中氏は1918(大正7)年生まれ、陸士第52期騎兵科卒、第1挺進団司令部部員、第1挺進戦車隊長などを歴任、1954(昭和29)年に陸上自衛隊に入隊、空挺部隊指揮官、戦車部隊指揮官を務めた。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。