空挺団物語(1) 挺進部隊の始まり 

□挺進作戦の起こり

 「挺」は訓では「ヌく」とある。引き抜く、抜き出るといい、ヌキンでるとも読む。群れからぬき出るという意味もあり、「挺進」は人より先に抜け駆けして進むことに使われた。

 戦前陸軍で、初めて文書に「空中挺進」が登場したのは1940(昭和15)年2月に公布された「航空作戦要綱」の中である。そこに「空中挺進部隊」の用法が明示されている。

 要綱の第253には、「(敵の)背後連絡線に対する攻撃の手段は爆撃を主とするも状況に依り飛行機に依る別動隊の挺進等に依ることあり」とある(原文は旧字・カタカナ、以後同様)。さらに「飛行機に依る別動隊の挺進は別動隊を敵地に着陸せしめ主として鉄道、道路、航空路、水路上の施設資材を破壊せしむるを通常とす」と記され、「時として落下傘降下に依らしむることあり」と落下傘の使用が明文化されていた。また、降下部隊に対しては、「爾後の連絡、補給に関し考慮を払ふこと緊要なり」と重要な配慮が記されている。

 この要綱の起案は1939(昭和14)年であるが、この時期には、極めて少数の空中挺進部隊の使用が考えられていたに過ぎないという(「偕行」座談会・昭和56年6月)。本格的な研究の始まりは1940(昭和15)年8月頃からだった。その5月のドイツ軍による西方への進撃で、大規模な空挺作戦を成功させた事実が報告されてからだという。

▼ドイツ空挺部隊の活躍

 1940年4月9日、デンマークにドイツ軍が突然に侵攻した。デンマーク政府は抗議したものの、戦争準備もしていなかったために「抵抗を止めよ」という声明を出したドイツにその日のうちに全土を占領された。

ノルウェーはドイツ海軍の艦艇や、空軍の航空機によって、沿岸部の主要な都市や港湾を制圧された。ドイツ落下傘部隊はスタバンゲルという南方の地に1個中隊を降下させて飛行場を制圧した。そこへ輸送機250機を使って5000名もの兵員を飛行場に降ろしている。次いで首都オスローにも強行着陸を行なった。

ノルウェーは英・仏・ポーランドの支援を受けたが、5月には国王がロンドンに亡命し、抵抗を国民に呼びかけた。しかし、その頃にはフランス戦線が活発化し、連合国の支援も減り、6月10日にはとうとうドイツの軍門に下った。

▼ドイツ空挺部隊の活躍

 

ドイツ空挺部隊の活躍は、5月10日のベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)へ国境を越えて進撃する場面から始まった。オランダの国内にはドイツ機甲部隊の突進の妨げとなる多くの河川と、それらを連ねる運河があった。ドイツ落下傘部隊は橋梁を目標としていた。

 メルジクでは1個大隊がマース河の両岸に降下して、2つの橋を無傷で押さえた。ドルトレヒトでは、わずか2個小隊でワ-ル河橋梁を短時間で奪った。ロッテルダムへの降下はもっとも規模が大きく、飛行場を占領し、後続部隊のための着陸場を確保した。

また、1個小隊はさらに挺進してネーデルライン河の橋梁確保に向かった。水上飛行機に搭乗した小部隊が河に着水し、橋梁に仕掛けられていた爆破装置を解除するといった偉功も立てた。15日にはロッテルダムの市街を破壊され、オランダは降服する。

 ベルギーでも、橋梁確保が重要な目的だったが、その先陣はグライダー搭乗部隊が担った。しかもグライダー部隊による要塞攻撃まで実行された。

エベンエマエル要塞はリュージュ要塞群の中でも中核になっていた存在で、第1次世界大戦ではドイツ軍の猛攻に12日間も耐えた。そこへ中尉が指揮する85名のドイツ空挺兵が12機のグライダーで奇襲をかけた。1200名のベルギー守備兵はパニックとなり降服してしまった。こうしてベルギーも28日にドイツに屈服することになった。

▼陸軍航空本部が担当となる

 1940(昭和15)年10月に、欧州方面の駐在勤務を終えて帰国した陸大兵学教官だった井戸田勇中佐が、陸軍大臣官邸でドイツ軍の用兵、航空、機甲、落下傘部隊の使用等について多くの首脳に報告を行なった。わが陸軍で落下傘部隊の建設が本格化したのは、この頃からだった。

 ドイツ軍では落下傘部隊は空軍に所属するが、飛行機その他器材等の関係から、部隊の建設は陸軍航空本部が担当することとなった。輸送機や落下傘、携帯する兵器の研究や改修など山積する問題があった。

 陸軍航空本部について説明してみよう。まず1919(大正8)年には本部と補給部で陸軍航空部ができた。続いて1925(大正14)年には、「総務部、技術部、検査部及び補給部より成る」ところの陸軍航空本部とされる。1935(昭和10)年には総務部、第1部、第2部を置き、航空技術研究所と航空廠が隷属機関としてできた。昭和12年には本部に第3部ができ、同14年に飛行実験部と翌15年に航空工廠が隷属機関に増える。

 航空廠は、航空関係兵器等の貯蔵、保存、補給、廃品処分を行なっていた。航空工廠は飛行機の製造、試作、飛行機製作技術の調査と研究が担当だった。

▼落下傘部隊の創設準備

 1940(昭和15)年11月30日、「濱松陸軍飛行學校練習部臨時編成要領」が裁可された。編成管理官は陸軍航空総監、編成担任部隊は浜松陸軍飛行学校とした。練習部長の任務は「浜松陸軍飛行学校長の命を承け落下傘部隊の要員養成に任すると共に落下傘部隊に関する調査、研究及試験を行ふ」ということである。

 練習部編成のための配属人員は次の通りだった。部長中(少)佐1、部員少佐(大尉)2、ほかに操縦者たる尉官1、教官少佐(大尉)2、尉官16、主計尉官1、軍医尉官2という合計で25名の将校となった。( )内は「もしくは」という意味である。

 人員数が25なのに軍医2名の配当はいかにも多いが、事故に対する救急措置及び隊員の身体検査ためであろうと、衛生材料定数表から推定される。その他の装備品としては、約340組の航空被服が計画されているだけだった。これから想像すると、とりあえずは1個中隊程度の基幹要員の育成を計画していたようだ。

 ただし、教育総監部、航空総監部、陸軍技術本部、陸軍航空技術研究所及び陸軍戸山学校の課員、部員、所員あるいは教官2~3名が兼務として練習部の業務に参画するよう配慮されていたことは確かである。

 次回は時系列にそって、列国軍の空挺部隊の概要などを書いてみよう。(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。