陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(114)自衛隊砲兵史(60) 陸自大変革
□はじめに
「師団は師団である、その編制はどこで切ろうが金太郎飴のように同じである」というのが、それまでの部隊編成の考え方でした。それは帝国陸軍以来の平時の師団の在り方だったのです。陸上自衛隊は、甲(4個普通科連隊基幹)、乙(3個同)の区分こそありましたが、4単位、もしくは3単位という基本にのっとって部隊編制を整えてきました。
もちろん、過去の歴史を見れば、長引く日華事変後の戦時新編師団などは、その用途から平時の固有の師団とは異なるものもありました。大陸の「治安師団」と俗にいわれた師団には軍旗がない(歩兵聯隊がない)、つまり独立歩兵大隊を基幹にした師団も存在しました。そうした師団は、野砲兵聯隊の代わりに師団砲兵隊をもちました。
そうしたことは戦時という帝国陸軍にとっても非常時の措置です。動員が解除され、平時編制に戻れば、どこの師団も金太郎飴のように同じ編制でした。
それが平成の平時に、師団、旅団の編成変換が行なわれました。これは画期的な出来事だったのです。
▼師団の旅団化
18万人、13個師団、2個混成団という体制が見直されます。定員は17万2000人とされ、うち常備自衛官は16万7000人とされました。即応予備自衛官という制度が生まれ、その定員が5000人でした。戦略単位は11個師団、2個旅団、2個混成団を基幹とします。単位数はいずれも15個ですから変わりはありません。
1999(平成11)年3月に第13師団(広島県海田市)、続いて2001(平成13)年には第12師団(群馬県榛東村)がそれぞれ旅団になりました。第13旅団は改編時には定員が7100人の乙師団でしたが、旅団になることによって4100人に減り、しかもうち500人は即応予備自衛官です。
この即応予備自衛官制度は1997(平成9)年に新設されました。ふつうの予備自衛官は有事に招集され、前線に出動した部隊の後方支援にあたるものです。それが即応予備自は「コア部隊」に招集されて、部隊規模を拡充する役割を担います。コア部隊は平時の定数の約20%の現役自衛官によって維持管理され、有事には残りの80%を招集して1個連隊を戦力化するものです。
第13旅団では、基幹になっていた米子の第8普通科連隊、山口の第17同、海田市の第46同に加えてコア部隊の第47同を新編しました。他の兵科(職種)部隊もこれにならってコア化して、特科連隊は特科隊になり、後方支援連隊も後方支援隊、戦車大隊は戦車中隊と縮小し、隷下部隊の合理化と縮小を図りました。その代わり、機動力や火力の増大をするといった施策を工夫します。
▼空中機動旅団の登場
第12旅団は東部方面隊の乙編制の1個師団(3個普通科連隊基幹)が改編されたものです。それまでの3個普通科連隊の規模を縮小し、新たにコア化された普通科連隊を新設します。やはり4個普通科連隊になったことは同じですが、連隊のその規模、装備は「軽歩兵連隊」というべきものでした。人事上でも、列国標準では「歩兵大隊」にあたるものであり、中佐(2等陸佐)が指揮するのが妥当とも議論されたようです。
しかし、地元の方々の気分はどうでしょうか。例を挙げれば新潟県上越市高田駐屯地の第2普通科連隊の存在を考えてみましょう。高田は帝国陸軍の師団司令部所在地でした。陸自になって頭号(第1をそういいます)連隊の名誉は東京練馬の普通科第1連隊に譲ったものの、普通科第2連隊は住民の方々の熱心な誘致で駐屯地にやってきました。
日足16条の聯隊旗よりも少ない8条ではありますが、白地に紅い日足の連隊旗が奪われる、それは後援する方々にとってどれほどの衝撃になってしまうことでしょう。同じようなことが越後(新潟県)新発田市の普通科連隊でも起きてしまいます。帝国陸軍以来、新発田城内に駐屯する歴史ある連隊です。住民感情に篤く配慮する、陸上自衛隊ならではの配慮が行なわれました。各普通科連隊は連隊として存続し、式典ではいまも連隊旗がひるがえります。
では、第12旅団の特色はというと、戦車大隊も廃止され、特科連隊も特科隊になりましたが、第12ヘリコプタ隊の新編でした。大型輸送ヘリ(CH47)他20機余りを固有装備として普通科連隊他の空中機動力を高めました。何度かお招きをいただきましたが、榛東村の駐屯地の北側にある飛行場のタワーからは遠く千葉県木更津まで見えます。
▼旅団という名称
1877(明治10)年、維新の英傑西郷隆盛が薩南健児とともに「政府に問う所あり」と呼号して挙兵します。当時は陸軍の大規模編制部隊は各地の「鎮台」と「近衛」しかありません。鎮台はその名称の通り、地域を鎮めるものであり、そのままでは出動できなかったのです。そこで案出されたのが「旅団」でした。戦地に移動して行動する単位部隊の名称として旅団が生まれました。したがって、戦時編成から平時に戻るときにはなくなっていたのです。
それが固有の編制上の固有名詞になるのは、鎮台の師団化改編が行なわれた1888(明治21)年のことでした。2個歩兵聯隊で1個歩兵旅団とされ、旅団長(陸軍少将)が指揮官となりました。2個旅団で1個師団の基幹兵力となります。のちに騎兵、野砲兵旅団なども生まれます。いずれも聯隊の上位組織であり、師団をいくつかまとめた軍の直轄でした。
▼さらに進む体制改革
「07大綱」から9年が経った2004(平成16)年に「16(ヒトロク)大綱」が策定されました。これは大きな転換です。「51大綱」昭和51年策定以来、陸上自衛隊は「基盤的防衛力」の維持、拡充を目標としてきました。つまり、「存在することに意味がある」「存在することが抑止力になる」といった主旨で防衛力整備を行なってきたわけです。
それが「16大綱」では大きな変換がうたわれます。
(1)新たな脅威や多様な事態への実効的な対応
(2)本格的な侵略事態への備え
(3)国際的な安全保障環境の改善のための主体的な、積極的な取り組み
を要件として「体制を効率的なかたち」で自衛隊を保持するとしました。
この「16大綱」に基づいた「17中期防(平成17~21年度を対象)」では、これまでの対着上陸侵攻、対機甲戦を重視した戦力構築を変換します。むしろ、ほとんど顧慮しないといったおもむきまで感じました。
すなわち特殊部隊やゲリラによる非正規侵攻や、大規模災害等、国際貢献活動への対応の強化などを重視し、「人(マンパワー)」の確保を十分にするといった体制整備を目的としました。
編制定数も変わり、基幹部隊も変えられてゆきます。次回はさらに具体的に見て行きましょう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著に『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。