陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(113)自衛隊砲兵史(59) 北方重視転換
□湾岸危機が起きる
1990(平成2)年8月2日の未明、イラク軍がクウェート領内に侵攻します。約6時間後には首都クウェートも制圧されました。紛争の直接の引き金は、7月18日にイラク政府はクウェートがイラク国内の原油を盗掘していると非難をしたことです。
しかし、イラク大統領のフセインの真意は、クウェートの領土と富を奪おうとしたのでした。また、ペルシャ湾岸での影響力を強めようとしたこともあります。その意図は、まず8月8日のクウェートを併合するといった宣言、28日にはクウェートを19番目の州とするという布告で明らかになっていきます。
要するに、とにかく言いがかりをつけて、次には実力行使という侵略国家の常套手段です。
これに対して、国連の安全保障理事会は、即時無条件撤退を求める決議を採択し、米英などの西側諸国はイラクを非難する声明を発します。ソ連もイラクへの武器援助を停止すると発表しました。
6日には安保理は経済制裁を決議し、7日にはアメリカ、8日にイギリス、10日にはアラブ首脳会議がサウジアラビアへの派兵を決定します。一方でイラクは17日に、国内の西側外国人を人質として対抗します。
▼多国籍軍がイラクを空爆する
1991年1月、国連の撤退要求の期限が15日に切れました。17日、アメリカ軍を主力にした多国籍軍が、イラク領内とクウェート領内に展開しているイラク軍や軍事拠点を空爆します。「砂漠の嵐」作戦の始まりです。前年の危機から1年経って、とうとう戦争が始まりました。
アメリカ軍の他、英国、サウジアラビア、クウェートの航空機数百機が行動します。ハイテク兵器を駆使して、イラクの軍事施設や航空基地を徹底して破壊しました。制空権を握り、その後も徹底的な航空攻撃が行なわれます。イラクもまた地対地ミサイル・スカッドをイスラエルやサウジアラビアに撃ち込みます。
2月15日には、イラクはクウェートからの条件付き撤退を表明しました。ところが、アメリカはこれを認めずに24日には、ついに地上戦に突入します。26日にはクウェートはついに解放され、28日には全軍が戦闘を停止しました。4月11日、国連安保理はイラクの恒久停戦受諾を正式に承認し、湾岸戦争はいったんの決着を見ます。
▼ついにソ連邦消滅
「8月クーデター」が起きました。19日朝6時のことです。モスクワのテレビ放送はゴルバチョフ大統領が病気になり、ヤナーエフ副大統領が職務を代行し、国家非常事態委員会が設置されたことを伝えました。
エリツィンらロシア共和国首脳は、この事態を不当なクーデターだと宣言し、国民に決起を訴えます。翌日にはレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)やモスクワで、多数の市民がクーデターへの反対集会を開きました。22日にはゴルバチョフも軟禁状態を解除されてモスクワに帰還します。
エリツィンは23日、ロシア共和国内での共産党の活動を禁止しました。24日にはゴルバチョフは書記長を辞任、党中央委員会には自主的な解散を要請し、共産党資産の全面的接収を命じます。ソ連共産党は解散の時を迎えました。この日、ウクライナも独立を宣言し、国家保安委員会(KGB)も3分割されて解体が進みます。
12月21日、バルト3国とグルジアを除く、11の共和国の首脳がカザフスタンのアルマ・アタに集まり、独立国家共同体(CIS)の創設を宣言しました。ソビエト連邦の存続の道を断たれたゴルバチョフは25日に大統領を辞任します。69年に及んだソ連はここに幕を閉じました。
▼冷戦が終わった、その後の防衛力整備
「51大綱(昭和51年)」から10年が経った1986(昭和61)年からの防衛力整備計画は単年度予算方式でありながら、5カ年の見積もり(ただし、3年ごとに見直しをかける)による「中期防衛力整備計画」が策定されました。以後の整備計画はこの「中期防」によって行なわれていきました。
最初の中期防(61中期防)は1986年から90年、昭和61~65(平成2)年度を対象にします。陸上自衛隊は、この期間に火力と機動力の強化に努めます。中期防の「別表」に定められた主要装備の数は、戦車約1040輌、主要特科装備数は同970門でした。なお自走砲も門で数えます。したがってこの数は牽引砲と自走砲の合計です。
この時期に登場した国産装備品は、87式自走高射機関砲、89式装甲戦闘車、89式小銃、90式戦車などがあります。野戦特科の装備では88式地対艦誘導弾(SSM-1)、対迫レーダ装置JMPQ-13、対砲レーダ装置JTPS-P16などが制式化されました。
また155ミリ榴弾砲FH70、203ミリ自走榴弾砲が採用されて、旧式化した牽引砲との換装も進んでいきます。
▼大規模武力紛争の可能性は低くなる
わが国周辺では、ソ連邦の解体があり、極東ロシア軍の動向にも変化が見られました。新生ロシアは日本への直接侵攻の可能性も低くなります。これまで主敵と考えてきたソ連軍がなくなって、北方重視だった陸自も再構築する必要があると考えられました。
また同時に、我が国内でも保守勢力から分離した新勢力の与野党合同の政権誕生など、政治体制の変化もありました。これも防衛力の見直しを加速させることになります。1990(平成2)年に策定された「03中期防(平成3~7年度対象)」では、防衛力を増強も縮小もしないというスタンスでしたが、92年になって計画は下方に修正されました。
1992年には大きな転機になる法律ができます。自衛隊初の国際貢献活動は、海自の掃海部隊によるペルシャ湾への派遣が初めてでした。これは、クウェートが国際支援に感謝する声明を発したときに、わが国がその対象から省かれていたことが話題になったことと関係があると思います。
当時、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」という言葉が語られました。わが国は、クウェートの危機に対して、金を出すことで貢献したと官民そろって思っていたのです。実際、イラクを攻撃した多国籍軍の費用にも、わが国が醵出したものがかなりの額が含まれていたのです。
ところが、世界の多くの国では、こうしたわが国の姿勢は軽蔑され、当事者のクウェートからは感謝もされていないことが明らかになりました。「ブーツ・・・」というのは、「実力行使をする部隊が実際に汗や血を流す」という意味でした。
「国際平和協力法」、「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」の改正とPKO法で知られる「国際連合平和維持活動等に関する法律」が成立します。これにより、同年9月から、陸自部隊によるカンボジアでの国連平和協力業務(PKO)が実施されました。
▼マルナナ(07)大綱が出る
1995(平成7)年、「07大綱」が策定されます。これは「コンパクト化」、「合理化」、「効率化」をうたったものでした。「機能の充実、質的向上」、「多様な事態への効果的対応、弾力性の確保」という目標が出されました。91年の長崎県・雲仙普賢岳噴火災害、95年の阪神・淡路大震災などの自然災害に加えて、同年には「地下鉄サリン事件」、97年には「ロシアタンカー遭難重油流出事故」などの特殊災害にも部隊派遣が行なわれました。
国防の危機は去った、だから自衛隊には何でもさせようという気運が高まったのは、このあたりからとわたしは思っています。(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著に『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。