陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(112)自衛隊砲兵史(58) ソ連崩壊
□ソ連のペレストロイカ
誰もが驚きました。ソ連邦の崩壊のニュースは世界中を駆けめぐり、あの共産主義の超大国が消えてなくなってしまうという不安感と、やっぱりという安心感があったと思います。
昭和の終わりに近いころから、ソビエト連邦はさまざまな動きを始めました。それは「ペレストロイカ」という言葉が始まりだった気がします。
ペレストロイカとはロシア語、「再編」とか「立て直し」という意味です。1985(昭和60)年3月、ソ連では指導部内では最年少のミハイル・ゴルバチョフがチェルネンコ共産党書記長の後継者に選ばれました。このゴルバチョフが推進したのが、ペレストロイカです。
▼1985年より後
この年、1985年にはわが国では筑波で「科学万博」が開かれ、夏には日航ジャンボ機が墜落、ニューヨークでは先進5カ国によるG5が開かれ、ドル高を修正するためのプラザ合意も開催されていました。
1986年には新年早々、ゴルバチョフがアメリカに核兵器廃絶の構想を申し出ます。戦略核兵器を50%削減、中距離核戦力の全廃、残る核兵器を廃棄という20世紀末までの段階的な核兵器廃止を提案しました。4月にはウクライナのチェルノブイリ原発が爆発し、放射能汚染が国境を越えて深刻な事態をもたらします。
1987年1月には中国の胡耀邦共産党総書記が辞任しました。当時の世論、報道は中国の自由化の推進の勢いが鈍るのではと危惧されていたようです。3月にはモスクワで英国の「鉄の女」サッチャー首相がゴルバチョフと会談し、中距離核戦力(IMF)問題を話し合いました。
9月になると、東ドイツの国家評議会議長が西ドイツを訪問します。翌月、アメリカのレーガン大統領がイランのアメリカ・タンカー攻撃への報復で、対イラン経済制裁措置を発表しました。その翌月の11月2日に革命70周年記念式典でゴルバチョフはさらなるペレストロイカの推進を強調しています。
▼ソ連軍、アフガニスタンから撤退
1988年4月にはジュネーブ合意が行なわれ、ソ連軍がアフガニスタンから撤退しました。1979年から長く続いた戦争でした。12月にはアンゴラの内戦解決のために、アンゴラ、南アフリカ、キューバの3カ国がアメリカの仲介で包括和平協定に調印します。この内戦は1975年にポルトガルからの独立を主張する解放人民運動(MPLA)とこれに対抗する解放民族戦線(FNLA)、それに全面独立民族同盟(UNITA)が三つ巴になっての争いでした。
1976年にはソ連とキューバが支援するMPLAが政権をとりますが、アメリカと南アフリカは対抗勢力に肩入れします。南アフリカにいたっては、不法統治していたナミビアを足場にしてアンゴラに侵攻しました。対抗してMPLAもナミビアの解放勢力に基地を提供するなどして、内戦は13年にも及びました。
▼昭和天皇崩御
1989(昭和64)年1月、天皇陛下(124代)がお隠れになりました。ご在位62年、神話の時代を別にすれば、その87歳のご年齢と在位期間は皇室史上最長となります。新元号は「平成」とされました。テレビも新聞も「昭和の時代」を回顧するものばかりでした。
2月、イランの最高指導者ホメイニー師がイギリス人作家の「悪魔の詩」をイスラムへの冒涜として、作家に死刑を宣告します。欧州共同体(EC)諸国は民主主義への重大な挑戦として死刑宣告に直ちに抗議し、外交官の召喚を行い、対抗してイランは各国駐在の自国の外交官を帰国させました。3月にはイラン外務省が英国との国交断絶を宣言します。
6月4日のことでした。中国軍が民主化を要求し天安門広場に集まった学生・市民を実力で排除します。反革命騒乱鎮圧と中国は発表しますが、実態は武力による一方的な虐殺と言っていいでしょう。罷免された胡耀邦の名誉回復や報道の自由を要求し、当時の共産党の最高実力者だった鄧小平中央軍事委員会主席の退陣を求めた行動でした。この事件の真相や実態については、いまも統制されていることが明らかです。
8月にはベトナム難民が急増します。九州・沖縄に次々とベトナムからの難民がやってきました。インドシナ半島の政情の不安定と経済的困窮があったようです。小さな木造船にすし詰めになって、全員が中国人であることもあり、出稼ぎ目的でわが国へやってきた偽装難民も多くいました。
9月にはポルポト政権を打倒したベトナム軍がカンボジアから撤退します(1978年12月に侵攻)。86年にはゴルバチョフ政権はベトナムへの援助を見直しました。ベトナムも経済再建へ政策を転換し、派兵されていた2万人が撤退します。
11月には東ドイツ社会主義統一党の指導部が、新しい国外旅行法案で、全東ドイツ国民の西側諸国への旅行・出国・移住の完全自由化を公表しました。9日には「ベルリンの壁」が崩壊します。
12月にルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊しました。首都ブカレストの市民のデモが始まります。チャウシェスク大統領は全土に戒厳令を布き、国軍に治安回復を命じます。ところが、国軍は命令に従わず、多くは市民側に与しました。救国戦線評議会が政権を掌握し、大統領は処刑されます。
▼湾岸危機起きる
1990(平成2)年になりました。6月にワシントンでブッシュ大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領が会談します。戦略兵器削減交渉(START)の基本合意声明を出しました。米ソが保有するICBM(大陸間弾道ミサイル)、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)戦略爆撃機などの戦略核兵器の半減を目指すものでした。85年3月のゴルバチョフ書記長の登場で、米ソ関係が大きく改善されました。戦略兵器削減条約で、翌年7月に調印されます。
ところが、世界が驚く事態が起きました。8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻します。首都は6時間後にはあっさりと占領されました。イラク大統領フセインのねらいは、富と領土を奪い、ペルシャ湾岸での影響力を強めることにあったのです。
国連安全保障理事会は直ちに即時無条件撤退を求める決議を採択し、米英などの西側諸国はイラクへの非難声明を出して、ソ連もイラクへの武器援助停止を発表します。安保理は6日、経済制裁を決議し、7日にアメリカ、8日に英国、10日にはアラブ首脳会議がサウジアラビアへの派兵を決定しました。一方、イラクは17日、国内の西側外国人を人質として対抗します。
10月には統一ドイツが生まれました。
次回は湾岸戦争と日本についてふり返りましょう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著として『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』を予定。