陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(109)自衛隊砲兵史(55) 第7機甲師団

□戦車は北転する

 今回は冷戦のさなかでの戦車隊のお話と第7師団の機甲師団化についてのお話を紹介します。参考にしたのは、『日本の機甲100年』(2019年、防衛ホーム新聞社)です。

 北転、「ほくてん」とは北方に転進するという意味です。1989(平成元)年から91年にかけてソ連の北海道侵攻に備えるために、内地の戦車部隊を縮小します。その勢力を北海道の戦車部隊に増強する事業がありました。これを「北転戦車事業」といいます。

 甲師団(4個普通科連隊が基幹)の戦車大隊は、14輌編成の中隊が4個、それに大隊本部車輌の合計60輌でした。乙師団(3個普通科連隊が基幹)の戦車大隊は3個中隊に本部車輌がある計46輌の編制です。

 それを各1個中隊ずつ削減し、浮いた戦車を北海道に移し、北海道各師団戦車大隊は1個中隊が18輌編成に強化されました。

 この事業によって、すでに機甲師団化していた第7師団の3個戦車連隊をそれぞれ5個戦車中隊編制に増強しました。また、北部方面総監の直轄部隊として第316から第320の5個戦車中隊を新編します。

 この方面総監直轄戦車中隊は、第316戦車中隊は上富良野駐屯地の第2戦車大隊に、第317・318の両中隊は真駒内駐屯地の第11戦車大隊に、第319戦車中隊は鹿追(しかおい)駐屯地の第5戦車大隊に、第320戦車中隊は北恵庭駐屯地の第1戦車群に、それぞれ隷属されました。

 このため東北方面、東部方面、中部方面、西部方面の各戦車大隊ではほとんどの大隊で1個中隊が廃止され、中部方面隊の第2混成団戦車隊は廃止されました。

▼第7機甲師団へ改編

 1981(昭和56)年3月には、51大綱に規定された機甲師団化する対象に第7師団が選ばれ、改編されました。陸上自衛隊第7(なな)師団は、陸軍第7(しち)師団の名を受け継いだ北海道の機械化師団でした。

 すでに学んできたように、北海道には札幌に司令部を置く北部方面隊がありました。第2師団は道北、第5師団は道東を守り、津軽海峡は第11師団が担任をしています。戦略機動師団としては第7師団が控えていましたが、その実力は来襲が予想されるソ連軍と比べると、いささか心もとないとされていました。

 あたかも『道北戦争1979』に描かれた1979(昭和54)年にはソ連軍によるアフガン侵攻が行なわれます。その知らせは衝撃ではありましたが、やはり地続きのアフガンとわが国のような島国では状況が異なります。

 こうしたなかで、初めての陸上自衛隊による日米共同実動訓練が行なわれました。1981年のことでした。北部方面第11師団の第10普通科連隊と、米陸軍第25歩兵師団とによって行なわれました。そこでの「対抗部隊(敵を演じる部隊)」は、ソ連軍風のヘルメットや、サガ―対戦車ミサイル風の模擬弾をもって行動しました。

 日米実動演習は、これ以後日米双方の指揮幕僚活動の違いを理解し合い、実際の部隊間の行動の連携を強化することを目的として、指揮所演習ともに恒例の行事となっています。

▼53中業の始まり

 それまでは防衛力整備計画が作られていましたが、防衛力の整備目標としての「中期業務見積」が生まれます。まず1980年から84年の5カ年を対象にされたのが「53中業」でした。その初期の重要な事業として、1981年、第7機械化師団と第1戦車団隷下の第2、同3戦車群と第102装甲輸送隊を、スクラップ・アンド・ビルドの形で、第7機甲師団が生まれました。

 当時の教範によれば、一般師団は「各種の地形及び気象を克服して、各種の状況下における地上作戦を遂行する」とあります。対して機甲師団は、「卓越した機動力及び装甲防護力を有し、各種の状況下における地上作戦を遂行」とされています。

 これはつまり、攻撃においても防禦においても、その優れた機動力の発揮こそが機甲師団の命であることを示しているわけです。そのためには航空優勢(味方の空軍が制空権を持つ)や十分な対空防護力(敵航空兵力から身を護る)を確保することが重要になります。すなわち、きわめて立体的な空地一体の戦闘が展開されるわけです。

 逆にいえば、航空劣勢のもとで、あるいは錯綜した地形では、その戦力の発揮には制約を受けます。そこで北海道のような広大な地形で、侵攻した敵機甲部隊と4つに組んだ戦いに勝ち抜くことが期待されていました。

 機甲師団には対空防護力が要求されるため、一般師団では2個中隊による高射特科大隊が付属しますが、第7師団については6個中隊からなる高射特科連隊が配属されています。また、多数の装甲車輌があることから、一般師団の武器隊に対して第7師団は武器大隊がありました。

▼第7機甲師団の特色

 旧第7師団の第7戦車大隊が第71戦車連隊になりました。第1戦車団の第2戦車群は第72戦車連隊に、第3戦車群は第73戦車連隊に改編されます。第7偵察隊は、人員が約30%も増えて、約200人となりました。装備戦車はM41軽戦車7輌から74式戦車10輌と増えて、APCも5輌だったものが17輌に増強されます。偵察隊はもともと機甲科の部隊です。行動には威力偵察も含んでいますから、戦車も当然装備していました。

 師団の特色は、3個戦車連隊が基幹となります。連隊の戦車の数は戦車群と同じですが、装甲車の数が増えました。第11普通科連隊は、1個しかない普通科部隊ですが、他の師団の連隊より人員が多く、中隊数も6個でした。特科連隊は、自走榴弾砲が4個大隊となり、4個連隊戦闘団の編成に対応可能になりました。

高射特科は先にも述べたように6個中隊から成る連隊になります。偵察隊は戦車・装甲車化して戦闘能力を高めました。施設大隊も装甲車化して、機械化も強化します。後方支援部隊である武器、補給、輸送、衛生等の各部隊を統合して後方支援連隊としました。師団対戦車隊は編制になく、その代わり普通科連隊の対戦車火器が一般師団の普通科連隊のそれらより増加しています。

 興味深いのは一般師団には、比較的隠密性や防禦的性格が高く、対着上陸戦闘の役割を担う79式対舟艇・対戦車誘導弾(通称重MAT)が装備されていましたが、第7師団には初めのうちは中・長距離対戦車火器は持たされませんでした。あくまでも中距離以下での直接的対戦車戦闘が要求されていました。機動打撃師団としての性格が与えられていたわけです。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)

1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著として『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』を予定。