陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(106)自衛隊砲兵史(52) 陸自の戦い方

2025年4月7日

 さて、今回はいよいよ61戦車から74戦車への移行期について調べてみました。前回でもご紹介した葛原和三元1佐のご論稿、陸自富士学校機甲科部編『日本の機甲100年史』の資料などを参考にしています。

▼ソ連軍の完全優位時代

 葛原氏の「陸自戦車を考える」(「丸」平成23年1月号)を読むと、木元将補の『道北戦争1979年』までのソ連軍への対機甲戦闘への道のりが明らかになります。

1960年代はベトナム戦争が拡大の一途をたどっていました。その頃のソ連軍の侵攻は、どのように想定されていたでしょうか。それは、空地にわたっての全縦深同時打撃、昼夜間連続の無停止攻撃などの様相となると想定されていました。前線も後方もなく、空からの対地攻撃、加えて重砲の砲撃、止まることのない戦車の急進攻撃があるということです。

 T62は115ミリの大口径滑腔砲をもち、その砲弾の初速は1600メートル/秒でした。対してわが61戦車の90ミリ砲は徹甲弾で初速約800メートル/秒です。こうしたことから、どこまで接近すればT62の正面装甲を貫徹できるのかも分かりません。当たったとしてもその効果もはっきりしていません。

 陸自の訓練の主体は、とにかく防禦における対機甲戦闘となりました。仮想敵のシルエットに似せるために各種の模擬装置が車輌に装着されて、敵の攻撃要領が展示されます。識別訓練、射距離の判定、敵車輌の弱点部分を照準点とした訓練に励んだと葛原元1佐もふり返っておられます。

▼陸幕指名の研究演習

 昭和48(1973)年度の陸幕指名演習は第11師団が担任しました。現在は旅団化していますが、当時は札幌市真駒内に司令部を置いた道央を守る師団です。この年の研究演習の主要な課題は「対機甲戦闘」でした。普通科連隊戦闘団が主体となって、各種の対戦車火器を総合的に集中運用することが中身となりました。

 このとき参考にしたのは、葛原1佐によれば第2次大戦の「クルスク戦車戦」におけるソ連軍の「対機甲戦闘」でした。優勢なドイツの機甲部隊にソ連軍は縦深の対機甲戦闘で挑みました。

 陸自の演習では、戦車は敵の空地からの砲爆撃に対して生き残る「残存性」が要求されました。戦車を隠す「掩体」だけではなく、戦車が進入して射撃できる坑道陣地も設けたそうです。

 さらに縦深的で横にも大きく広がる地域障害と陣地前方の対戦車壕、断崖などの地形障害と連接した各種対戦車火器を配備しました。当時の中心は有線誘導の64式MATであり、106ミリ無反動砲などでした。これらを駆使した陣地構成は「千鳥型陣地」とか「絣(かすり)状陣地」、「摺下(すりお)ろし陣地」などと呼ばれました。

 ここでの戦闘法は、初弾から必中が望める有効射距離内の対戦車撃破地域を設定します。そこへ各種の障害などで誘導し、斜射・側射によって一気に撃破する企図です。これをキル・ゾーン(KZ)戦法といいました。これを突破した敵戦車を最終的に阻止し、反撃するのは予備隊として控置されていた戦車部隊でした。

▼第4次中東戦争

 同年の1973年、第4次中東戦争が起きました。そこではイスラエル軍の戦車に対して、ソ連製のサガー対戦車ミサイルの有効性が証明されます。そこで全国の戦車部隊では、対戦車ミサイルの監視警告訓練や回避訓練が行なわれました。

 サガーミサイルは1964年に制式化されたもので有効射程は500~3000メートル、最大速度は秒速115メートル、弾頭重量は3.1キロ、貫徹力は400ミリといわれていました。ミサイル全体重量は11キロの歩兵が携行するタイプです。この速度はなかなかに大敵でした。64式MATは秒速85メートルですからずいぶん違います。

 そこで陸自戦車部隊では、どの角度から監視すれば発見率が上がるか、発射煙や飛翔体がどのように見えるかを研究します。葛原元1佐は、当時所属した富士教導団戦車教導隊での工夫の数々を語っています。弾着地の外側からビデオ撮影をし、発見・監視の要領を研究したこと。対戦車ミサイル部隊と対抗演習を行ない、連続照準を難しくする各種の回避運動の有効性、発煙弾による掩護などを検討したそうです。

▼珍しいカモフラージュ

 現在の10式戦車には陸自戦闘車両共通の2色迷彩がされています。緑と茶色ですが、1970年代では国防色といわれたオリーブ・ドラブでした。そこで葛原元1佐の属する教導隊第2中隊では、遠距離からの眼鏡捕捉に対しての効果を示す各種の迷彩塗装を試験していました。61戦車の独特の背の高いシルエットをどのように背景に溶かしこむか苦労されたそうです。

その一例がデジタル迷彩でした。写真で確認できますが、季節や気候の変化に対応できるメリットがありました。降雪時にはローラーで白色を追加して塗ることができ、模様が見る距離によって異なって見えたそうです。

次回は装甲車について調べてみましょう。(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。