陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(105)自衛隊砲兵史(51) 戦車について
いよいよ分断作戦が始まります。今回も木元将補の『道北戦争1979』を元にして語らせていただきます。
▼7月17日
宗谷丘陵は道北地域を東西に分ける分水嶺です。中央部には幌尻山(標高427メートル)、モイマ山(前同232メートル)などの残丘状の独立峰があり、全体になだらかな丘陵で、エゾ松などの森林に覆われた部分も多いという様子になります。この宗谷丘陵を東西に横断する道路は2本しかありません。
北部にある稚内猿払線が幹線道路です。7月14日、浜頓別・枝幸地区から北に離脱したソ連軍を、7師団がハンマーとなって追撃した経路と重なります。7師団は宗谷岬から曲淵付近にかけて進出し、稚内地区のソ連軍と対峙していました。
南部の東西連絡道は浜頓別と豊富(とよとみ)を結んでいます。分断作戦の主役を務めるのは8師団と富士戦闘団です。その各部隊は17日早朝の作戦発起のために、16日夜には宗谷丘陵を徒歩や車輌で越えて、豊富東側の攻撃発起位置(ATP=Atack Position)に移動していました。
宗谷丘陵はゆるやかに起伏しているので脊梁山脈といったおもむきはありません。移動しているといつの間にか分水嶺を越えるといった風です。付近に集落や人家もありません。
▼第8師団の移動
8師団の部隊は、阿蘇外輪山の大矢野演習場(熊本県天草郡)、霧島演習場(鹿児島県)、日出生台(ひじゅうだい)演習場(大分県)などで訓練を積んできています。これらの演習場の地形は、よく開けた高原が多く、どこか宗谷丘陵の環境と似ていました。
10榴(105ミリ榴弾砲)や15榴(155ミリ前同)が大型車輌に牽引されて宗谷丘陵を越えていきます。61戦車、74戦車、75HSP、60APC、73APCなどの装軌車輌がエンジン音を低くし、速度を落とし、覆帯(りたい=クローラー)の音をきしませて、警戒管制灯を照らすだけで西へ向かいました。
▼戦車の話
ここで簡単に61式戦車、60式装甲車、続いて73式装甲車についてふり返ってみます。まず、戦後初の国産戦車61式から始めましょう。多くの文献で紹介された61式戦車は90ミリ砲をもった戦後第1世代の戦車です。もっとも、敗戦国だったわが国には制約が多々あり、しかも専守防衛の憲法9条があります。列国の戦車に比べると、研究開発にもどうしても遅れてしまった嫌いがありました。
警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊と進化しましたが、61戦車までの装備は第2次大戦型のM4中戦車、M24軽戦車、1950年代開発のM41軽戦車とすべて米軍供与の装備となりました。
わが国の戦車の歴史も考えてみましょう。陸自戦車のことばかりではなく、世界の戦車研究家の第一人者、葛原和三元1佐の論稿を参考にします。
わが国初の国産戦車は1929(昭和4)年、皇紀でいえば2589年のことでした。末尾の89年から「八九式中戦車」が誕生しました。これが404輌の生産数、続いて「九七式中戦車」が同じく2208輌、「一式中戦車」も同じく170輌、「三式中戦車」が同じく166輌です。この他、戦車といえば「九四式軽戦車」などもありましたが、とりあえず主力戦車の生産数でいえば、合計で2948輌になりました。
対して戦後の自衛隊は、61式が560輌、74式が870輌、90式が2011年(61の制式化から50年)現在、340輌の生産数です。合計で1770輌であり、陸軍は陸自の1.7倍の主力戦車を造り、年間の生産数ではおよそ陸自の5倍にもなっています。
陸軍が戦車を決して軽視していたわけではなかったのですが、現在でもその評価は低いと言っていいでしょう。火力が十分ではなかった、対戦車戦闘を考慮していなかったという批判が多いのです。ノモンハン事件(1939年)、大東亜戦争でも敵の戦車に対して火力で優位に立てなかった事実から言われているだけに、弁護のしようもありません。
その対戦車戦闘能力の欠如の理由とは葛原元1佐も言われていますが、期待される役割の違いからです。陸軍戦車は歩兵についてゆき、敵のトーチカや機関銃陣地を潰すという移動砲台の役割を負っていました。
では、対戦車戦闘はどうしたかというと、歩兵聯隊に装備された94式速射砲の任務でした。その37ミリの徹甲弾は十分にソ連のBT戦車を撃破していました。のちの一式速射砲の47ミリ弾もM3戦車には十分有効であり、M4戦車にも車体下部などを狙えば、時として撃破できることもあったのです。硫黄島の戦いやフィリッピンでも米軍側の被害記録が残っています。
わが陸軍の主力戦車は歩兵を掩護することが主任務であり、あくまでも敵の戦車より火力で優越し、装甲で勝るという要求はされなかったのです。
▼戦後初めての国産61戦車
米軍のM47戦車をモデルとしました。これはパットンといわれた1951年に造られた戦後第一世代の主力戦車です。61戦車の開発が決まったのは1955(昭和30)年のことでした。ソ連の傑作戦車T34(85ミリ砲搭載)を上回り、61の開発中にデビューしたT54/55(100ミリ砲搭載)に対抗できるように企画されました。
留意されたことには、専守防衛の国内戦を想定し、接地圧の減少、出力/重量比の向上でした。接地圧の減少は軽快な機動力をもたらします。重量を軽減し、覆帯の面積を広くするなどが重要です。重量が軽くなれば、エンジン出力が同じなら、やはり機動力が向上します。この出力/重量比は当初トン当たり20馬力を企画しました。600馬力のエンジンなら総重量は30トンになります。
しかし、要求仕様とすり合わせていくうちに、装甲も増加したし、鉄道輸送の限界もあり35トンになりました。ここで世界の水準からすると鉄道が狭軌(1067ミリ)であることから車体幅も3メートル以内という制限を受けます。このために車体長が長くなり、回転半径も大きくなりました。背の高さ(全高)も3メートルを超えます。
それでもM47と同じ口径90ミリの砲を載せます。これはアメリカのM36駆逐戦車の90ミリ砲を参考にして日本製鋼所の協力で製造されました。
次回は、制式化された61式戦車のライバルとなったT62(1962年制式化)戦車との戦いをどう想定したかをお話しましょう。(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。