陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(104)自衛隊砲兵史(50) 装軌車輌の野戦病院

 戦車・火砲の回収、修理はどうするか? 実際に疎いわたしたちには有難いことに『道北戦争1979』で木元将補が描いてくれました。

 名寄といえば、旭川よりさらに北にある盆地の名称です。そこには平時には高射特科群と普通科連隊が駐屯しています。この1979年の時点、名寄では臨時編成の第101装軌車修理大隊が活動を開始しました。修理大隊は本部、管理中隊、回収中隊、修理中隊から成っています。

 

 回収中隊は、浜頓別や枝幸方面に放棄されている彼我の戦車などを、戦車回収車や重レッカーで集めて、大型トレーラーに載せて名寄に運搬します。戦車回収車は戦車の砲塔を取り去ってクレーン等を装備した車輌です。

 修理中隊はそれらを戦闘可能な状態に修復しました。優先されたのは74戦車で、少しでも早く第一線部隊に戻さねばなりません。稚内や天塩方面には日ソ両軍の装軌戦闘車両が遺棄されています。戦況が落ち着けば、これらの回収や修理も急がねばなりません。

 修理中隊の隊員は方面武器隊、地区補給処の装軌車整備要員です。同時に、民間の戦車整備会社からも臨時の作業員が派遣されていました。名寄駐屯地整備工場は装軌車輌の野戦病院にあたります。傷ついた戦車を再生するために24時間昼夜兼行で動いていました。整備工場の外側には、次々と修復を待つ損傷車輌が到着しています。

 大隊本部の中には「戦訓班」が編成されていました。装軌車輌の被弾状況を現場で調べ、分析し、鋼板材の改良などに役立てようとする目的です。これらの記録を部隊の戦闘詳報と突き合わせれば、装備や戦闘法の改善にもつながります。この『道北戦争』は陸自にとっては初めての実戦であり、学ぶべきことが多くありました。すでに中央機関からも関係要員が選抜されて参加しています。

▼三菱重工業特車事業本部

 神奈川県相模原市にある三菱重工業特車事業本部戦車製造工場では74戦車の製造が高ピッチで進められています。開戦までには月産5輌、年産で60輌の生産が企画されていましたが、製造ラインを1本増やして月産10輌のペースに高められていました。戦争の状況から見れば、月産50輌くらいの増産が必要ですが三菱重工は民間企業です。当然の常識として、将来の採算を度外視してまで工場の拡張はできません。それに何より、戦車製造という特殊技能を持つ人は簡単には養成もできず、集めることも不可能なのです。この製造ペースが約2倍というのも、それが精一杯のところからでした。

 第一線の損耗補充を優先しますが、同時に並行して内地の戦車も早急に74戦車に換装しなければなりません。61戦車はすでに第一世代に属する戦車でした。現実の問題としては、国家レベルでの戦車の増産体制、部隊の緊急補充体制などはまるでゼロです。米国製のM60A3戦車を緊急輸入するという手もありますが、実際には教育訓練や部隊練成が必要であり、第一線で使うには数カ月もかかります。

 石破総理がアメリカに向けてC17輸送機を購入したいと言ったとか。彼は軍事マニアであり、卓上の知識はいっぱいあるようですが、兵器・装備についての常識が備わっていないと思えます。まず、すでにC17は米軍でも使わなくなっていることが指摘されていますが、運用上の課題がいくらでも挙げられることは航空自衛官でなくてもすぐ分かります。

 たしかに総理がいう輸送機の積載量は多ければ多いほどよい、たしかにその通りですが、大きくなれば長くて、強い滑走路が必要です。整備工場などのスペースも大きくなり、整備要員の育成も大切でしょう。それは自衛隊員が頑張ればいい、努力するのが仕事だというお考えなのかも知れませんが、やはりマニアだと言われても仕方ありません。

▼M60A3という戦車

 木元将補の記述に現われる米陸軍の制式M60A3戦車について調べてみました。M60はM48をベースにした武装強化、エンジンの変更、射撃関係装備の更新を行った戦車です。ソ連が1950年代後半から東ドイツ軍に大量に配備した100ミリ砲を装備したT54/55への対抗措置だったといわれます。

 したがって初期のM60は英国製の105ミリ砲L7の改修型のM68、空冷ディーゼルと射撃統制装置が目新しかったものの、新鮮味はありませんでした。それが1961年には新型砲塔を積み、各部が改良されたM60A1が採用されます。

 1971年には米陸軍は装備近代化を計画して、1978年(道北戦争の1年前)に制式化が行なわれます。これが木元将補のいうM60A3です。第1次改良型は1875輌も生産されます。第2次改良型は3786輌と大生産され、確定した生産型は1686輌、合計で7347輌が造られます。さすが米国の底力を感じる数字です。

 それでもソ連のT64/72型の125ミリ滑腔砲よりも火力性能で劣るということから65口径105ミリ低圧滑腔砲に換装する計画が進みました。

▼ノシャップ守備隊健在なり

 稚内を占領するためにはノシャップ岬を抑える必要がありました。それが陸自の26戦闘団の守備陣地の戦力を過小に見積もったために、ソ連軍は攻略できませんでした。本来、ノシャップ攻略のためには2個師団が必要だったのです。7月4日に2個師団を上陸させ、1個師団をノシャップ攻撃に専念させるか、8日に上陸地を変更して稚内地区に進出するかが戦術的な正解でした。それを声問海岸・抜海海岸に上陸してしまいました。

 ノシャップ岬を確保すれば、稚内港を最大限に使うことができました。沿海州からの後方連絡線を確保できて、兵站物資も後続戦力も安全に、十分に送り出すことができるのです。それが適切な防禦陣地の設定と、陸海空隊員2000人の勇戦奮闘でソ連軍の意図を破砕したのでした。

 ソ連のねらいは、わが国を屈服させて善隣友好条約を結んで稚内港を手にすることです。平和友好条約をわが国と結んで、ベトナムのカムラン湾のように軍港化できれば最高でしょう。占領した道北地区の大部分を返還する、その代わり稚内港の自由使用を手に入れる、これがソ連の目的でした。しかし、ノシャップ岬を手にすることができなかったために、侵攻した兵力そのものが無力化したと言えるでしょう。

 旭川の作戦司令部は17日早朝からの「分断作戦」開始を前に、8師団と富士戦闘団を旭川から宗谷丘陵地区へ戦術展開させました。同時に最終決戦態勢の確立のために、矢臼別に集結中の5師団を道北に進出させる命令を出します。この頃、アメリカ海兵隊1個MBA(旅団規模戦闘団)は北海道の苫小牧沖を目指して北上中でした。(つづく)


荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。