陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(103) 自衛隊砲兵史(49) 戦車の戦い

 木元将補の『道北戦争1979』はいよいよ大詰めを迎えます。両軍は戦車と火砲によって打撃力を競うことになります。ここで第2次大戦後の戦車の歴史をふり返ってみるのも一興でしょう。ちなみにこの時の新鋭戦車74式が、昨年、すべての部隊から姿を消しました。あの「戦車らしい戦車」という陸自OBたちからの声も聞こえます。

▼戦車の損耗

 ここまでの戦いに300輌をこえる74式戦車が戦場に投入されました。その半分以上が損害を受けていると想像されます。北海道に存在する手つかずの74式戦車は、5戦大(5師団固有の第5戦車大隊)の46輌と11戦大(同じく第11師団隷下)の60輌だけでした。

 

 5戦大は師団といっしょに道北へ移動しますが、11戦大は札幌地区の守りの為に道央に控置しなければなりません。内地の戦車部隊は、富士学校の戦車教導隊に30輌の74式戦車はあるものの、他の師団戦車隊はすべて61式戦車ばかりです。そのためはるか九州から転進してきた8戦大も61で今回の分断作戦に参加しようとしています。

 木元将補は過去の戦史の事実を元に書かれました。第2次大戦中のドイツ・アフリカ軍団のロンメル戦車軍団は、戦闘で損傷したIII号戦車IV号戦車を修理して戦力回復に努めました。その上、鹵獲した英国のマチルダ戦車も整備して使います。

 近いところでは、中東戦争でイスラエル軍は鹵獲したエジプト軍やシリア軍のT62戦車をすぐに戦力化しました。陸上自衛隊にはこうした経験も準備もありません。でも、道北の戦場には動けなくなった74式戦車やT62戦車、BMP-1歩兵戦闘車、わが73式装甲車などが放置されています。これらを回収し、修理して戦力を回復するべきは当然のことでしょう。

▼第2次大戦後の戦車

 戦後の戦車第1世代は1945年から1960年代初頭までの戦車をいいます。大戦末期には有名なドイツのパンターなどの口径76ミリ、ティーゲルの88ミリ、ソ連の85ミリなどの砲をもつ戦車が最強だったようです(もちろん他にも大口径砲を装備した特殊な重戦車がありました)。それが60年代初頭には交戦距離を1000~1500メートルと想定した90ミリ砲を搭載した重量40トン前後、最高速度55キロ毎時といった戦車が主力となりました。

 続いての第2世代は、1960年代と70年代前半までの、砲口径は100ミリ級(決戦距離は1500メートル以上)、重量は45トン、速度60キロというものです。この後に登場したのが「道北戦争1979」に登場する、俗に2.5世代といわれるT62(砲口径は115ミリ)でした。

 第3世代は1970年代後半から登場しました。砲口径は120~125ミリ級で主決戦距離は2000メートル以上で、重量も50トン前後、速度は65キロ毎時以上です。西側諸国はソ連のT62に対抗できるように120ミリ級の砲を搭載した新戦車を開発します。西ドイツのレオパルトII、アメリカのM1、英国のチャレンジャー、フランスのAMX30/32、イスラエルのメルカバなどがこれです。そしてわが陸自の90式戦車もこの仲間でした。

▼T62とは

 T62は革新的な滑腔砲(内部に施条がない)口径115ミリ(初速1600メートル/秒)を採用しています。続いてT64や72では125ミリ砲を搭載しました。対して西ドイツのレオパルトIIは120ミリ滑腔砲(ラインメタル社開発)をもち、米国のM1A1も同じ砲を採用しています。74式戦車は105ミリのライフル砲身でした。性能もすべて第2世代最終期の戦車にふさわしいものです。

 1970年代の初期にT62A型が登場しました。この仮想戦記に登場する戦車がこれだと思います。数字の後ろの( )内は74式戦車のデータです。乗員は4名(4名)、戦闘重量38(38)トン、全長9・40(9・41)メートル、車高2・28(2・25)メートル、車幅3・37(3・18)メートル、最大速度路上50キロ毎時(53キロ同)、行動距離350(400)キロ。こうしてみると、たいへんよく似た大きさです。

 T62Aの照準・射撃制御装置として砲の右側に出力2Kwの白色・赤外線切換可能のサーチライトが取り付けてあります。赤外線の最大照射距離は800メートルでした。光学合致式・ルビー・レーザー測遠機、アナログ式弾道計算機とサーマル・イメージング式照準暗視装置が装備されています。

▼地上侵攻への備え

 よく戦車には火力・防護力・機動力のバランスが必要だという見方があります。確かにそれは能力的な見地からして間違っていませんが、それだけだと装甲移動砲台としか見られません。実は戦車のほんとうの力は、その「衝撃力」にあります。

1980年代の半ばごろ、わが国では「海空主陸従」という主張がありました。当時の自由民主党幹事長金丸某氏は、「1週間くらい水際で抵抗すれば米軍がやってくる。ムシのいい話だが、戦車なんか自衛隊に要らない」と放言したくらいです。その気分もいまだにあるのでしょう。事実、わが国の戦車や火砲は次々と減らされ続けています。

 あの頃(1980年初期)にはソ連地上軍は来ないだろう、食糧、燃料などのある程度の自給、備蓄政策をとっているし、シーレーン防衛も海自のおかげでまず安心だろう、だから即効性のない地上軍侵攻はないという考え方を語る専門家や評論家がいました。

航空撃滅戦と本土爆撃だけで国民をパニックに陥れさせても、ソ連の核攻撃は考えられず、海空重視政策で育てられてきた本土防空能力も期待できるということです。

 しかし、専守防衛という巨大な足かせが当時の我が国にはありました。海空戦は先制奇襲を攻撃要件とします。敵の第一撃は甘んじて受ける、いまも空自の戦闘機のパイロットはロシアや中国の領空侵犯に対して、こちらから先制攻撃はできません。まず僚機が撃墜されて初めてミサイル、機関砲を使えるのです。

 とはいえ、過去の戦争では本土空襲だけで敗れた国はありません。そうであると、即効性のある手段はただ一つです。地上軍の侵攻でしょう。80年代後期(平成の初め頃)の

ジェーン海軍年鑑には「北海道侵攻能力がある」と明記されていました。防衛庁防衛局長も国会で「3、4個師団と空挺師団、空中機動旅団などの侵攻もあり得る」と答弁していたそうです。

 次回は、戦車と火砲の役割と重要性を学びましょう。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。