陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(102) 自衛隊砲兵史(48) 陸自総攻撃

□ご挨拶

 いよいよウクライナ戦争についての新局面が始まりました。終結についての話し合いが具体的に聞けるかと思いきや、米ウの大統領同士の激論になってしまいました。今後、どうなるのでしょうか。戦争は始めることより終わらせるほうが難しい、そういった歴史の教訓が思い出されます。

 今回はいよいよ陸上自衛隊の攻撃が始まります。木元将補はそれをどう描かれるでしょうか。今回も『道北戦争1979』を元にお話を続けます。

▼分断作戦

 旭川の作戦司令部では、計画の第4期(最終決戦)の前段、決戦態勢の確立の準備が行なわれていました。総監の頭の中には、決戦態勢を確立することで、わが国に有利な停戦交渉への道が開けるという確信がありました。ソ連のSS-20中距離核弾頭ミサイルの実際の使用は論外としても、ソ連軍が新鋭の師団を投入する前には態勢を整えることが大切だということでもあります。

 具体的なイメージは、侵攻してきたソ連軍部隊を稚内地区と天塩地区の2つに分断することです。分断ができた後に、各個撃破すればよいということになります。まず、新鋭の8師団に富士戦闘団を配属して、宗谷丘陵の幌尻山南側地域から本流-豊富-サロベツ湿原方向に攻撃させて侵攻ソ連軍を南北に分断しようという構想です。

 サロベツ原野は200平方キロ、宗谷丘陵~日本海、稚内~天塩の間に広がる大湿原になります。車輌はもちろん、人でさえ越えにくい泥炭湿地帯です。ホバークラフトを除いては通常の部隊行動はとれません。分断作戦のためには第8師団をサロベツ湿原まで突出させて、南側の第2師団と北側にある第7師団と連携して、2つの包囲網を形成しようとしています。

 司令部では、第8師団・富士戦闘団に分断作戦の構想を示しました。15日夕方から基礎配置への移動、17日早朝の攻撃開始を命じます。この分断作戦が予期の通りに進めば、17日夕方以降、ソ連軍との停戦交渉が可能となることでしょう。この態勢が出来あがれば政府と一体になって停戦交渉に臨んでもいいと北方総監は考えていました。

▼最終決戦は稚内地区

 停戦交渉に臨むには、交渉の裏付けとなる実力が必要です。実際の部隊が現地に配置されて、命令一下、いつでも行動できる態勢をつくることが交渉の切り札になります。

 最終決戦構想は、ノシャップ岬と宗谷岬を固守して、第5師団と第7師団を並列し南方から攻撃する案でした。このためには矢臼別演習場に集結中の第5師団を道北に転進させる必要があります。同時に第5師団が抜けた後の穴埋めが必要です。司令部は輸送艦やフェリーで移動中の第6師団(山形県神町)を釧路に上陸させて矢臼別演習場に展開するべく処置を行っています。

 ついに米軍が動き出しました。エンタープライズの横須賀からの出撃、沖縄の第3海兵師団の動きが伝わってきました。米軍の具体的な動きは、強力なバック・アップになります。北方総監は陸上幕僚監部を通じて、米海兵隊の一部を演習の名目で北大演(ほくだいえん・北海道大演習場・千歳、恵庭地区)に進出させるように要請しました。米海兵隊の軍旗が道央の北大演にひるがえれば、道北・道東の両正面にみらみが効き、ソ連軍新鋭師団の投入への大きな抑止になります。

▼苦境に立つ第2師団

 第2師団は7月10日のソ連軍侵攻から10日間の激闘を終えています。大きな損耗を出していました。第2師団は音威子府を核心として道北の要域を死守して、北部方面作戦部隊の反撃を可能としたのです。師団固有の装備の大半を喪失し、配属部隊を含めて多くの人員を失いながらも、幌延付近で防禦陣地を固守しています。第26連隊はノシャップ岬に健在で稚内港への砲撃を続行し、ソ連軍の兵站活動を妨害していました。

 損耗ということでは、わが自衛隊には「動員」がありません。第一線の部隊に損耗があっても補充要員はいないのです。当時の予備自衛官は、戦闘部隊が前線に出た後の警備や後方支援にあたるだけで第一線部隊への補充員として使うことができませんでした。いや、現在でも基幹部隊の要員である即応予備自衛官はともかく、ふつうの予備自衛官は前線の補充要員ではありません。

 では、このとき、陸上自衛隊はどのような手段を取ったのでしょうか。部隊の自衛官は、幹部(将校)、陸曹(下士官)、陸士(兵)の3つの階層がありますが、平常では一部の隊員たちは、課程教育、特技教育、集合教育などで職種学校や教育団などに派遣されています。その教育訓練を中止し、学生たちを本来の所属部隊に復帰させる処置を取りました。

 木元将補は戦車大隊を例にしてその実態を教えてくれています。15日現在の第2戦車大隊(2戦大と略称します)の現有戦力は74戦車10輌、78式戦車回収車1輌、73式APC3輌、人員は段列を含めて150人ほどでした。

 そこへ、富士学校などから幹部3名、第1陸曹教育隊(千歳)・第1機甲教育隊(御殿場)から陸曹8名が原隊復帰しました。この11人を警備隊に編入します。第2師団の各連隊はどこでも同じような状況でした。学校や教育隊からの復帰、駐屯地業務隊への臨時勤務者の引き揚げ、入院・入室患者の退院・回復などによって、師団全体では数百人の隊員が原隊に帰ってきました。

 次回は装備品の問題です。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。