陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(100)自衛隊砲兵史(46) 米空母エンタープライズ

□ご挨拶

 「陸軍砲兵史―自衛隊砲兵まで」の連載も100回目になりました。今回も木元元将補の『道北戦争1979』を元にお話を進めさせていただきます。

 どうやらトランプ大統領の就任で大きくウクライナの情勢も変わりそうです。いったいどうなるのか。テレビや新聞では、やはりいろいろな判断、予想等が現われますが、いつもの通りだなと思っています。

 備蓄米を放出する決断をされた大臣。投機筋の動きを読めなかったのでしょうか。「今さらとか、判断が遅いとかいったお叱りは甘んじてお受けする」と、はなはだ潔いお言葉でしたが、その責任はどう取るのか見えてきません。

どんな情報が省内にあがり、どのような議論の結果、どのような意見が潰されたのか・・・その遅くなってしまった判断を大臣に上申したのはどのような方々だったのでしょうか。責任を明らかにするには、そこが大切なのではありませんか。いつものように新聞もテレビも事実だけを報道するといい、本質的な追及にはなっていないと思います。

▼世界初の原子力推進空母

 15日午後、エンタープライズが横須賀軍港を出航しました。この大型空母は1958年度予算で建造が承認され、58年2月に起工された世界初の原子力推進空母でした。進水は60年9月で、就役したのは61年11月です。ノーマン・ポルマー氏の著書によれば、基準排水量は7万5704トン、満載排水量は9万3284トンとのことでした。

 建造時には、原子力推進のおかげで燃料交換なしに20万マイル(約37万400キロ)以上を航行できると見られていましたが、実際には20万7000マイル(前同38万3365キロ)を航行しました。地球の赤道1周が4万キロメートルですから、燃料補給もなしに9回以上も周回できてしまいます。

 アメリカ議会は1960年度会計年度に2隻目の原子力空母建造のための予算である3500万ドル(当時の邦貨換算で126億円)を承認しましたが、当時のアイゼンハウアー大統領は、この計画を延期して約10年後のニミッツまで原子力空母は建造されませんでした。この間の穴埋めに通常動力のキティ・ホーク型が2隻建造されました。結局、エンタープライズ型は1隻しか生まれませんでした。

 ちなみに当時1961年度のわが国の国民総生産は約15兆6200億円、防衛費が1803億円でした(朝雲新聞社資料)。約130億円もする空母は、陸海空全体の防衛予算の7%強にもあたる数字です。日米の国力の差を思い知らされます。

 全長は331.7メートル、幅は40.5メートル、喫水は11.9メートル、飛行甲板の最大幅は75.7メートル、アングルド・デッキの長さは230.4メートル、10度の傾斜がついていました。
 

速力は33ノット(約67キロ)で、推定建造費は4400万ドル(当時の邦貨換算158億4000万円)とされています。機関は加圧水型原子炉8基と蒸気タービン4基が搭載されていました。乗員は約3300名、そのうち士官が同170名、飛行要員は同1700名だったそうです。

 わが国に寄港することに反対する「エンプラ阻止闘争」(1968年1月)という事件もありました。佐世保に入港しようとする同艦への反対運動で、当時の「全学連」約2000名が基地の前で警備する機動隊員5000名と激突した事件です。参加した人の多くは口をぬぐって現在もどこかで暮らしているのでしょうが、そんなこともありました。

▼米空母のシステム

 第2次大戦後に米海軍は4隻のフォレスタル級空母を建造しました。キティ・ホーク型は1961年に就役したキティ・ホークを始めとして、コンステレーション、アメリカ、ジョン・F・ケネディの4隻が完成します。基準排水量は約6万トン、当時はエンタープライズを除けば世界最大の水上艦でした。

 大きな働きを見せたのはベトナム戦争の時です。ベテランにあたるフォレスタル級4隻とともに、キティ・ホーク、コンステレーション、アメリカの3隻がトンキン湾上から南北ベトナムの共産軍攻撃に活躍しました。

 空母には数個の飛行隊で編成された空母航空団が配属されています。当時は1970年12月に初飛行したノースロップ・グラマンF-14トムキャット(映画『トップ・ガン』で有名)が搭載されていました。長く働いた同機も老朽化から、2003(平成15)年9月には、空母キティ・ホーク乗り組みの第154戦闘飛行隊が日本から去って行き、姿を見せなくなりました。

 しかし、1979年の物語では世界最強の艦上戦闘機でした。その特長は主翼の後退角をコンピュータ制御で可変できるシステムです。1度に24個の目標の処理が可能で、優先的に6つの目標に対して空対空ミサイル、フェニックスを発射することができました。そのうえ、バルカン砲を装備し、可変翼を効率的に使いドッグファイト(格闘戦)もこなし、最大速力はマッハ・2.24とされています。

 

 攻撃機は、初就役は1954年と古いものの1976年まで、ボーイングA-4スカイホークを搭載していました。この機体は兵装のバリエーションも多く、ベトナム戦争や中東戦争などの戦火もくぐり抜けています。アルゼンチン空軍や海軍でも採用されて、フォークランド紛争(1982年)でも英国艦隊への攻撃にも使われました。フランス製の空対艦ミサイルで英国海軍に損害も与えます。

 作中のこの時には後継機のA-7コルセアIIが搭載されていたでしょう。またノースロップ・グラマンA-6イントルーダーも搭載していたのではありませんか。他に改造型のEA・6Bプラウアー電子戦機、同E2Cホークアイ早期警戒機、対潜哨戒機ロッキード・マーチンS-3バイキングなども搭載していると想像されます。

 搭載機数の合計は80機を超えていました。艦隊防空に、対地攻撃に大変な打撃力を持っていました。

▼米海兵隊の動き

 当時のわが国に駐留する第3海兵機動展開部隊(IIIMAF)は極東におけるプレゼンスを維持する部隊です。沖縄のキャンプ・コートニーには第3海兵師団司令部、キャンプ・ズケラン(瑞慶覧)の第1海兵航空団司令部、牧港(まちなと)の第3海兵補給支援群などで慌ただしい動きも見られます。

 海兵隊が上陸作戦を行なう場合、歩兵・砲兵・戦車・航空・補給部隊などを一元的に指揮する戦闘団が編成されて、独立行動能力の付与が重視されます。

 MAUは戦闘団としては最小の編制です。歩兵大隊を基幹として砲兵中隊、戦車小隊などで増強されます。戦車5輌、野砲6門、ヘリコプタ30機、戦闘機10機、兵員2700人です。

 MABは旅団規模の戦闘団になります。砲兵大隊、戦車中隊などで増強され、戦車17輌、野砲26門、ヘリコプタ100機、戦闘機70機、兵員1万6000人。

 MAFは最大の編制で、海兵師団、海兵航空団(WING)、補給支援群などで構成されて、戦車70輌、野砲102門、ヘリコプタ230機、戦闘機230機、兵員5万1000人です。

▼SS-20を知らなかった首相

 ついせんだってのこと、民主党政権時のK首相は、「よく調べてみたら、自衛隊の最高指揮官というのはわたしだったのですね、初めて知りました」と笑い話のネタを提供してくれました。あれには呆れかえったものですが、そうした軍事への無関心・無知は政治家や一部の官僚の皆さんには共通のものでしょう。

 ソ連は1977(昭和52)年からSS-20中距離核弾頭ミサイルを欧州正面に急ピッチで配備しました。当時のNATO(北大西洋条約機構)には、SS-20に匹敵するような戦術核がなかったので、NATO諸国の首脳部はいっときパニックに陥ったほどでした。

 このとき、サミットで首脳たちの間でSS-20が話題になりました。そのとき、日本の首相はSS-20のことを何も知らずに応答し、他の首脳たちから冷笑を浴びせられます。首相の軍事音痴も甚だしく、それを補佐するはずの外務省の方々もどうしようもない人たちだなと呆れかえったことがありました。

 木元将補の作中には、SS-20の使用をほのめかすソ連外務次官の発言が米国に与えた大きな影響が書かれています。それは沖縄、グアム、フィリピンまで射程に収める兵器だからです。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。