陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(99)自衛隊砲兵史(45) さまざまな波紋

今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。

▼シビリアンコントロール

 これまで公表を避けてきた政府でしたが、14日夜から報道が始まり、とうとう官房長官が記者会見を開くことになりました。そこでは、政府に戦争指導方針がないことが追及の中心になっています。ソ連軍を追い落とすまで戦うという決意がようやく明らかにされました。

 15日午前零時の停戦という動きが、ソ連からの働きかけであったか、なかったかも記者の追及にあいました。官房長官はそれを否定しながらも、戦略が欠けていたことを認めます。

 シビリアンコントロールについても、その機能がマヒしていることが指摘されました。政治が軍事に優先するという意味が、わが国では背広組(防衛庁官僚)が制服組(自衛官)を支配するということに解釈されているのではないかという質問が出ます。

 会見場には陸幕防衛部長が同席していました。陸上幕僚監部というのは陸上幕僚長をトップとして防衛庁長官を補佐する組織です。ご承知のように陸海空自衛隊は当時も3幕といわれるように3つの幕僚監部をもっていました。

戦前では「統帥権」が政治から独立し陸・海軍省がそれぞれありました。一般行政と関わる軍政は各省が司り、軍隊の運用にあたる軍令はそれぞれ陸軍参謀本部、海軍軍令部が受け持ちました。

いずれも制服を着た陸海軍人(武官)が主流であり、文官も次官以下の軍属もおりましたが、軍事に素人である人たちが運営で重要な役割を果たすことはありませんでした。

 それが戦後に自衛隊となったときには、「防衛庁内局」といわれる官僚たちが制服組よりも上位に立ちました。すべて役人の許可がないと制服組は何もできないという体制が生まれたのです。

▼制服蔑視と軍事忌避

今となっては様々な笑い話がありました。制服組への偏見です。海外へ赴任する防衛駐在官の礼服に飾緒(しょくちょ)を付けようとなったときのことでした。背広の幹部が大きな声で言いました。「あんな戦争中に横暴だった参謀が付けていたようなものは絶対許さん」。おそらく戦時中は学徒から入隊、予備将校であったのかも知れません。そこで「乱暴・横暴・無謀」の「サンボウ」といわれた陸軍参謀と出会ったことがあったのでしょう。

行進曲にもクレームがつきました。今では陸自の行進曲、「陸軍分列行進曲」です。それには元々、「西南戦争(1877年)」での「抜刀隊」の活躍を讃えた歌詞がありました。昭和30年代というので、自衛隊時代の話でしょう。「我は官軍 我が敵は」で始まる歌詞でしたが、「官軍とは何か、けしからん」と議論にもならずに使用を禁止されました。

長い間、一種公務員試験合格者(いわゆるキャリア組)による支配は続きます。自衛隊は軍隊ではないという理屈が常識であり、軍隊らしい、軍隊のような行動はさせない、できないという状況が長く続いていたのです。

▼ソ連の反応

 ただちにソ連政府は反応しました。一方的に停戦合意を破ったとし、報復にSS-20中距離核弾頭ミサイルを使うといい、自動車化狙撃師団の増派を行なうと外務次官は宣言します。「恫喝声明」です。

 たちまち世論は沸き立ちました。「日米安保条約」はどうなっているんだ、米軍はなぜ助けてくれないのだという人々も多くいます。しかし、今も昔も社会問題、政治問題に関心が低い人はたくさんいるように、安保条約をしっかり読んだ人などめったにいません。その安保条約第5条には「いずれか一方に対する武力攻撃が自国(つまりアメリカ)の平和及び安全を危うくするものであること」とあり、そういう事態だと認めなければ参戦はしないのです。

 また、当時のカーター政権は冷戦中とはいえ、デタント外交が基調でした。現実問題としても、現在のように米軍と協同訓練を緊密に行なったり、ドクトリンのすり合わせもしたりしていたわけでもありません。1970年代の陸上自衛隊と米海兵隊や米陸軍との協同作戦もうまくいかなかったのではないかと、木元将補は作中では新聞記者の言葉を借りて主張されています。

▼指揮系統の問題

 個別的自衛権と集団的自衛権の憲法解釈の問題もありました。日米両軍の指揮系統を一本化できないという、軍事常識からは考えられないような政治的制約があったのです。式の一元化ができない戦争、まさに戦争にならないと言っていいでしょう。

 日米共同訓練がなかったわけではありません。しかし、実際にはそれぞれの指揮系統に従って動くという状態でした。統合作戦など行なえば、国会、マスコミは大騒ぎになったことでしょう。憲法9条を守れ、軍事同盟を廃棄しろ、そんな主張がされたことに違いありません。それほど、当時の野党、マスコミは現実離れをした、あるいはソ連・中国寄りの路線を守っていたのです。そうして、それに属する議員に投票し新聞・テレビの報道を信じる国民も多くいたわけでした。

▼アメリカの反応

 ソ連外務次官の核の使用もあるかも知れないという発言にアメリカは反応します。「日ソ間の紛争(conflict)だと見ていたが、核兵器も使うというなら戦争(war)である。合衆国は太平洋軍司令官に対して日米安保条約第5条に基づき、領域に兵力を派遣するように指示した」と国務省報道官は言明しました。

 当時、太平洋軍は米本土西海岸からアフリカ大陸東岸、北は北極圏までの管轄区域をもっています。これは地球表面の半分以上です。司令部はハワイにおき、太平洋地域陸軍部隊(2個歩兵師団)、太平洋艦隊(第3艦隊、第7艦隊)、太平洋海兵隊(2個海兵師団)、太平洋空軍(第5空軍、第13空軍)などを隷下にもつ統合軍でした。総兵力は32万人にもなりました。

 15日の午後、米空母「エンタープライズ」が横須賀を出港します。

 次回は米軍の行動を元に描かれます。(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。