陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(98)自衛隊砲兵史(44) 第4期の作戦に向かって

今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。

▼午後4時の状況

 第7師団のハンマーは、1600(午後4時)頃に猿払村鬼志別に達します。師団長は24戦闘団を曲淵付近に進出させ開源~稚内を衝く態勢をとり、追及してきた23戦闘団を国道沿いに北上させて宗谷岬の奪回を命じます。3戦群を鬼志別演習場に集結待機させて、師団段列を浜猿払の村営猿払牧野(ぼくや)に開設するように処置しました。

 段列というのは日本陸軍からの伝統的な言い方です。弾薬や糧食、衛生材料等などの補給・整備・物資をあつかう部隊を指します。当時、師団には武器、輸送、衛生の各隊がこうした後方支援任務を果たしていました。集積所や交付所、トラック等の集結・整備場所等を段列といったのです。

 23戦闘団長は、オホーツク海側から浸透して、まず丸山(標高167メートル)付近への進出を目指します。宗谷岬のオホーツク海側は山裾では急な崖となっています。それが登りきると、クマザサと低木に覆われた開豁地になっていて、ほとんどが牧場です。そこからは稚内を見おろせる展望地でした。

 戦中には、ここに宗谷臨時要塞が置かれ、宗谷砲台といわれる陣地もありました。96式15糎加農4門と、150糎探照灯1基があったそうです。また、海軍聴測機もありました。海中の潜水艦の推進音を聴いていたようです。

この砲台には実戦経験がありました。ウラジオストクのソ連極東艦隊への抑えとして樺太南端の西能登呂岬の砲台(宗谷岬と同じ装備)とで、宗谷海峡の守りに就いたのです。1943(昭和18)年8月には浮上航行する国籍不明の潜水艦を射撃しました。また10月にはアメリカ潜水艦に対して砲撃を加えているそうです。

 23戦闘団長は、まず情報小隊を送りました。もしソ連兵がいたら、15榴×10、107ミリ重迫×12の火力支援を受けて、普通科中隊を一気に突撃させる計画です。丸山付近を奪取すれば、後続の中隊を投入し宗谷岬先端付近の丘陵に進出させ、戦車中隊を国道から大岬に突入させようということでした。

 宗谷岬はノシャップ岬と並んで宗谷湾の入り口にありました。砲兵や戦車、段列を抱えて戦闘団が拠点を占領するにも十分な広さ(地積という)があります。鬼志別演習場を中心にして宗谷岬-モイマ山-曲淵を連ねる地域を確保すれば、ソ連軍に大きな圧力をかけることができます。7師団は15日にかけて新たな態勢を築こうとしています。

▼利尻・礼文両島の奪回

 ソ連軍は7月4日の稚内侵攻と同時に、1800メートルの滑走路を持つ利尻空港、800メートルの滑走路をもつ礼文空港を占領していました。そこにヘリコプター輸送連隊を進出させて兵站基地として利用しています。利尻空港にはMi-8・ヒップ(4トン積載)を32機、礼文空港にはMi-6・フック(12トン積載)を12機も配備して、燃料・弾薬・糧食などの輸送を行なっていました。ソ連軍は稚内港の補完として両島の港湾施設に補給品を揚陸し、これらをヘリで侵攻部隊に輸送したのです。

 利尻島は面積が182平方キロメートル、人口は当時1万3000人ほどの円形の島です。中央に利尻富士といわれる標高1721メートルの山があります。その北方の礼文島は面積82平方キロメートル、人口6000人の平らな島です。

 14日の夕刻、F-1支援戦闘機、F-4ファントム戦闘機合わせて12機が利尻空港、礼文空港を空襲して、滑走路に並んでいたソ連軍ヘリの多くを撃破しました。同時に、千葉県習志野の第1空挺団1300人がC-1輸送機から降下します。装備はカール・グスタフ84ミリ無反動砲、81ミリ、107ミリの迫撃砲、64MAT、小型車輌などとともに落下傘降下したのです。両島にはソ連軍の戦闘部隊はほとんどおらず、第1空挺団は両島の空港施設、港湾施設を15日朝までに確保しました。

 64MATは戦後第1世代の有線誘導の対戦車ミサイルです。ミサイル・アンチ・タンクの略称で「マット」と呼ばれました。1956(昭和31)年度から防衛庁技術研究所と川崎重工、NECなどが開発に着手します。1964年度に制式化された初の純国産ミサイルです。ジープに搭載された発射装置は、操縦器、眼鏡、電話器、送信器、制御器で構成されてジープに搭載のまま、あるいは地上に卸下(しゃか)して設置後に重量15キログラムの誘導弾を撃ち出します。

 直径は12センチで、ケーブルを曳きながら秒速85メートルで飛翔しました。ケーブルの長さは1500メートルで非常に細く、眼鏡で照準する照準手の操作誘導で複雑な弾道にも耐えながら目標に命中します。21世紀初頭まで装備されていましたから、富士総合火力演習などで姿を見た方もおられるでしょう。

▼北進してきた8師団、富士戦闘団

 すでに旭川駐屯地に集結した第8師団(司令部・北熊本)は乙師団です。つまり、国分(こくぶ)の12普連、熊本の42普連、都城(みやこのじょう)の43普連を基幹としていました。師団固有の特科(砲兵)連隊の装備は牽引式105ミリ榴弾砲3個大隊、同じく155ミリ榴弾砲1個大隊でした。第8戦車大隊の装備は61式戦車3個中隊です。隊員は九州男児、その精強度は疑われませんが、装備はどうしても一世代前のものでした。

 これは時代によって重視される方面隊があるということです。当時は誰も「西方」の中国や、ましてや北朝鮮などが攻めて来るなどとは考えていなかったのでした。侵攻の能力があり、その危険が高いのは「北方」でした。ソ連軍です。新しい装備はどうしても北の4個師団や特科団に回され、74式戦車や15HSPなどは北海道の部隊の物だったのです。

 富士戦闘団は、富士教導団が応急出動に際して編成された戦闘団です。平時には富士学校長の下で、幹部・陸曹教育等にあたる部隊でした。御殿場市滝が原の普通科教導連隊、それに大隊規模の特科教導隊、同じく戦車教導隊、偵察教導隊、施設中隊などの部隊がそれぞれ戦闘隊に改編されました。しかし、段列を編組(へんそ)する後方支援部隊はありません。教育支援の関係で、新旧装備が混在するといった弱点がありました。

 新旧装備の混在というのは現在でも変わりません。一般公開される富士学校の開校記念行事には、それこそ現在の装備を新旧合わせて見ることができます。それは幹部候補生学校を卒業し、普通科(歩兵)、野戦特科(砲兵)、機甲科(戦車・偵察)の職種(兵科)を指定され部隊に赴任したばかりの新任幹部は、どこの部隊でも働けるように現有装備すべてを学ばねばならないからです。

 総監部の作戦司令部はこうした部隊の実態をしっかり把握して計画を立てねばなりません。

(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。