陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(97)自衛隊砲兵史(43) ハンマー発動!

□自衛官の処遇改善

 先日は防衛3団体の賀詞交歓会がありました。市ヶ谷のグランドヒル・ホテルの会場で、石破内閣総理大臣、国会議員の方々、防衛省の高官、防衛関連企業の皆さん、それに郷友会、隊友会、家族会のメンバーでご挨拶を交わします。わたしも末席を汚したわけですが、石破総理が役員の開会のご挨拶のすぐ後、長いお話をされました。

 そのご挨拶は自衛官の処遇改善の紹介から始まりました。資料も配られ、大いに広報してくれとのことなので、以下ご紹介します。

まず、「自衛官の給料は安い?」という問いに対して、海上自衛官が2任期(5年)で退職した場合、総額は3092万円になるとのお答えでした。衣・食・住・医療のすべてが無料で、年間111万円と保健医療にかかる費用が6万円とされています。そうすると、3092万円+555万円+30万円、合計で3677万円となるようです。これを5年で割れば、約735万円(年収)になります。高卒18歳で入隊したモデルです。

 また、「任期制自衛官が終わった後のキャリアパスは?」という問いに対しては、資格の取得、民間企業への再就職、さらには大学進学等が用意されているとのこと。退職時の進学支援給付金は即応予備自になった場合は53万5800円、予備自に任用されると35万6000円とのことです。

 これらを分かりやすく自衛隊各地方協力本部では動画などで広報しています。陸上自衛隊版は宮城地本のリール動画などで目にできます。よく工夫されています。

▼第3戦車群のこと

今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。

 ソ連軍は国道238号線をひたすら北上していました。先行した第7偵察隊は西側から待ち受け、第24戦闘団と第3戦車群が南方から追い上げています。上空には空自の迎撃戦闘機がエア・カバーに任じていました。市街地での戦闘を避けるために敢えて退路を解放しましたが、もう遠慮は不要です。ソ連軍を発見次第、攻撃を加えます。

 第3戦車群とは、当時の第1戦車団隷下の部隊です。第7師団が「機甲師団」に改編されたのは1981年、この仮想戦記の2年後のことでした。第7師団第7戦車大隊が第71戦車連隊になりました。そうして、この戦記で奮闘した第3戦車群が第73戦車連隊になったのです。同じく戦車団隷下の第2戦車群が第72戦車連隊となりました。

この経緯について、ちょっと横道に入りますが、詳しく語ってみます。

▼第1戦車団の新編

 機甲科部隊の歴史については、ほとんど決定版と言ってよい『日本の機甲100年』(2019年・防衛ホーム)があります。以後の記述は、それに依ります。

 仮想戦記の時期は1979(昭和54)年2月ですが、陸自は第4次防衛力整備計画にのっとって、1974(昭和49)年8月に第1戦車団を新編して、そこに第1戦車群を編合します。

この第1戦車群は、1956(昭和31)年に第1特車群として発足したものです。第101、第103、第104の各特車大隊がこの特車群となりました。

 このときの編成が載っています。軽戦車M24が2輌、中戦車M4が69輌、戦車回収車M32が5輌とあります。ただし1961(昭和36)年の改編で第104特車大隊はM41(長砲身76ミリ砲)戦車に換装されました。

 戦車団の編成表もあります。団全体の戦車数は222輌となっています。戦車団は74年の新編に際して74式戦車が配備されていました。したがって、この戦記に登場する戦車はみな新型の74式のわけです。

▼部隊配備の基礎となった51大綱

 政府は昭和51(1976)年10月に、51年度で終了する第4次防衛力整備計画に代わる「ポスト4次防」として昭和52年度以降についての「防衛計画の大綱」を発表しました。これが「基盤的防衛力構想」といわれたものでした。

 「基盤」とは何を言うか。大きな情勢変化がない時には、後方支援体制を含めて自衛隊の組織・配備において均衡のとれたものとし(小規模・限定的な侵攻には独力で対処できる)、新たな防衛体制が必要になったときには、増強して円滑にそこへ移行できるというものです。

 そうなると、「隙の無い部隊配備」が必要となります。重要な師団などを地理的特性に従って配置しようというものでもありました。そこで山脈、河川、海峡などで区分されている地域をまとめ、平時の行政事務の便も考慮して、境界線を作ります。

 すると北海道は、道北・道東・道南の3区画になりました。東北は北部・南部の2区画、関東、甲信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州は北部・南部の2区画、それに沖縄の合計で14区画です。そこで各区画の配置には14単位部隊が必要となります。地域の特性から四国と沖縄(すでに第1混成団がありました)にはそれぞれ混成団を置き、あと12区画には1個ずつの師団を配置すればよくなります。

 新たに四国には定員18万人から1個混成団を生み出すことになりました。また、陸自は「主として機動的に運用する各種の部隊を少なくとも1個戦術単位を保有する」ということになっていましたから、機甲師団、特科団、空挺団、教導団とヘリコプタ団をもたねばなりません。

そこでまだ編成されていなかった機甲師団(第7師団は機械化師団でした)を生むために、第1戦車団を廃止し、その戦車を第7師団に統合することで「機甲師団」にしたわけです。

 現在は、道北に第2師団(旭川)、道東には第5旅団(帯広)、道南は第11旅団となり、それに第7機甲師団が置かれています。51大綱の当時には、北海道の3地区には、それぞれ師団がありました。この大綱で戦車団は廃止され、第1戦車群は方面総監隷下の直轄部隊となりました。

▼機甲師団への改編

 仮想戦記にも出てくる第7偵察隊は機甲師団になったおかげで強力になりました。人員は150人から200人となり、M41軽戦車7輌から74式戦車に換装されて、定数も10輌に増え、装甲兵員輸送車も5輌から17輌になります。

 戦車連隊3個と普通科連隊1個が師団の基幹です。そのため第24普通科連隊は、九州の第8師団を甲師団(それまでは3個普連機関とした乙師団)とするために九州へ移駐します。第23普通科連隊は解散し、その人員は戦車連隊等に編入しました。そうして残った1個連隊は第11普通科連隊となります。いまも機甲師団の普連として89式装甲戦闘車を装備しています。しかも、他の連隊と異なり6個中隊(通常は5個)でした。

特科連隊はすべて自走榴弾砲で4個大隊、4個戦闘団の編成に対応できました。高射特科も連隊編制です。施設(工兵)大隊も装甲車化して機械化が強化されました。また、武器、補給、輸送、衛生等の後方支援部隊をまとめて連隊にします。師団対戦車隊はありませんが、普通科連隊の対戦車火器の数が一般師団の普通科連隊より増えています。

 次回はいよいよ宗谷岬の奪回作戦です。

(つづく)


荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。