陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(96) 自衛隊砲兵史(42) ハンマーの完成
今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
▼第7師団主力の攻勢
第23戦闘団は師団輸送隊から27輌の2.5トントラックの配属を受けていました。他に特科大隊(15HSP×10)と74式戦車14輌から成る戦車中隊も付けられています。
15HSPというのは155ミリ自走榴弾砲のことです。榴弾砲(自衛隊では「りゅう」弾砲)はHowitzer(ハウザー)といい、自走はSelf Propelledの訳語です。
枝幸を解放したという果実は第23戦闘団が手にしましたが、それは第25戦闘団の勇戦奮闘のおかげでした。第23戦闘団は枝幸に停止せずに、国道238号線を北上しました。枝幸には第25連隊から抽出された警備隊がやってきます。郷土部隊はあくまでも第2師団です。繰り返しますが、この頃、第2師団は留萌の第26普連、遠軽の第25同、旭川の第9同、名寄の第3同の4個連隊を基幹とする甲師団でした。
第23戦闘団が枝幸市街地に入った頃、第7師団主力の第24戦闘団(千歳市に駐屯する第24普連を中核とした戦闘団)と第3戦車群が戦闘に加入します。
ソ連軍はすでに浜頓別・枝幸地区の放棄を決めて、14日午前零時の停戦が成立したときに一斉に撤退する予定を立てていました。軍事に疎く、腰が据わらない日本政府や外務官僚たちを恫喝して停戦を実現させて、そのときに安全に撤退しようとする計画でした。
ところが、陸自第7師団は1日早く反撃を始めました。おかげでソ連軍は、撤退を強要されるという展開になったのです。
▼第7偵察隊の戦い
午前5時過ぎ、浜頓別南側丘陵で防禦をしていた自動車化狙撃中隊と戦車中隊は、中頓別方向から前進してきた7偵と遭遇します。日ソ両軍が3000メートル以内の交戦距離に入るのと同時に、15Hの20門による砲弾がソ連軍2個中隊の頭上に炸裂しました。落下して爆発し、あるいは空中で炸裂する榴弾、煙覆(えんふく)を行なうために発射されたWP(黄燐弾)などです。
ソ連軍のBMP-1に搭載されたサガー・ミサイルは発射できません。T-62戦車も、せっかくの115ミリ滑腔砲も撃つ機会を失いました。
▼上空を掩護する空自戦闘機
第7偵察隊はクッチャロ湖西岸に進出します。238号線を遮断する動きを見せます。7偵はさらに西側から迂回しながら頓別平野を北上し、ヘリコプターで潜入していたオートバイ斥候と連携しました。「圍師必闕(いしひつけつ)」、窮鼠猫を噛むという状況を防ぐために、包囲網の1方向は必ず開けておくという方針は7偵にも徹底されています。
浜頓別平野に第7師団主力が進出した頃には、ミグ23戦闘機に護衛されたミグ27対地攻撃機が大挙してやってきました。本来、地上に並んだ装甲車輌の群などは対地攻撃機の格好の目標です。ところが空は曇っており、ミグ27は雲の下に降りて攻撃態勢に入らねばなりませんでした。
第7師団固有の第7特科連隊の第5大隊はM42自走対空機関砲24門をもちました。各中隊8門の3個中隊です。この自走機関砲M42はダスターという愛称で知られた66口径40ミリ機関砲2門を搭載したアメリカ製のクローラー付き車輌でした。光学照準という旧式でしたが、その有効射程は5000メートル、大隊が48門の全力発揮をするとミグ27のパイロットには大きな心理的な負担を与えます。
▼迎撃機専用にされたファントムII
そうして、このとき雲上では空自のF4EJ戦闘機が空中戦を行なっていました。F4EJファントムII戦闘機は原型が初飛行したのは1958(昭和33)年のことです。もともと米海軍の艦上戦闘機としてデザインされましたが、その強力なエンジンと大きな機体のおかげで多用途性に富んでいました。米空軍にも採用されました。なお第2次世界大戦前の機体にファントムという名称があったために、それをI、クドネルダグラス社の機体をIIとしています。
F4E型は空軍の要求を具体化したモデルと言えるでしょう。EJのJは日本仕様を表します。M61バルカン20ミリ砲を装備し、火器管制装置もソリッドステートで小型化されていましたが、オリジナルの米空軍仕様との大いなる違いは爆撃装置がなかったことでした。またブルパップ対地ミサイルコントロール装置、空中給油装置などがありません。これらはわざわざ外したのです。
若い方々はご存知ないかもしれませんが、この60~70年代のわが国世論で声が大きかったのはソ連に憧れ、中国が大好き、北朝鮮を賛美といった人たちでした。新聞もテレビもラジオも、学界も出版界も、すべてが左翼思想の人々の支配下にありました。
その連中が、「爆撃装置など侵略用の装備だ」「空中給油などしたらソ連や中国、北朝鮮へ行けてしまう、隣国の方々に嫌な思いをさせるな」「迎撃用の戦闘機に対地上ミサイルなどおかしい」「憲法9条を何だと思っているのだ」などと大声を上げていました。
国会でも野党代議士、議員が興奮しながら自国の兵器の価値を下げる主張をしていました。まあ、今でもミサイルの射程を伸ばそうとすると、「近隣諸国が嫌がることは止めろ」などという人士もいますが。
爆撃コンピュータを外すような愚かなことをしなければ、F1支援戦闘機が予算的に十分な機数を揃えられなくても、F4EJが迎撃と兼ねて任務を果たせたでしょう。でも、わが国の行なうことに少しでも嫌がらせをして、国力を削ぐようなことするのが任務の人たちにとっては大勝利だったことなのです。その勢力が「北朝鮮による日本人拉致などなかった」という主張をした人たちと同じ人たちだったことは偶然でしょうか。
午後4時ころ、ついにスレッジ&ハンマーの、第7師団のハンマーは鬼士別に達します。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。