陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(95)自衛隊砲兵史(41) 時間差攻撃
今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
▼5時間の時間差攻撃
第7師団の作戦は次のように時間差攻撃を行なうものでした。まず、午前5時に第23戦闘団が攻撃を開始します。歌登(うたのぼり)-金駒内-幌別神社方向に慎重に攻撃、幌別海岸に達すると一時停止して枝幸攻撃の態勢を見せます。ソ連軍に枝幸からの退去を促すわけです。
午前10時には、第24戦闘団と第3戦車群から成る師団主力が浜頓別正面から攻撃を始め、国道238号沿いに猿払(さるふつ)-鬼志別(おにしべつ)方向に突進します。第7偵察隊は師団主力の攻撃に先立って頓別平野に進出させます。浜頓別市街地を避けて、クッチャロ湖西岸を行動して、主力の攻撃発起までは国道238号線の使用を避けて、枝幸・浜頓別地域のソ連軍に対して退路を一時的に解放する計画です。
▼攻撃準備射撃
7月14日、第23戦闘団は4時45分から15分間にわたって砲迫による射撃を開始しました。金駒内~幌別海岸に対して75式自走榴弾砲10門、107ミリ重迫撃砲12門でした。現在は重迫といえば、射程8100~13000メートルに達する120ミリ迫撃砲RT(平成4年度導入)のことをいいます。この当時は第2次世界大戦以来の歴戦の107ミリ迫撃砲M2です。
操作員は6人で発射速度は最大で毎分20発といわれました。最大射程は4000メートルで弾量もあり、破壊力も大きいものでした。75式自走榴弾砲は現在の99式自走榴弾砲の前に採用されていました。生産は制式化と同時の1975(昭和50)年から始まり、当初の生産は5輌でしたが、のちに年間に30輌という急ピッチで配備が進みました。
車体は三菱重工製で、74式戦車や73式装甲車と技術的共通点が見られます。とりわけエンジンはそれらと同じZFファミリーで、空冷のシリンダー(ボア135ミリ、ストローク150ミリ)を共用していました。この自走榴弾砲には6ZFというV型6気筒エンジンが載り、2200回転/分で500馬力を発揮します。最大速度時速47キロメートルという運動力がありました。
車体前部左側にエンジンがあり、右側には操縦席を置き、後半部を戦闘室となっています。起動輪は前部にあり、フロントエンジン・フロントドライブです。転輪は片側6個で、最後部の転輪は誘導輪を兼ねています。ほぼ同時に採用された74式自走105ミリ榴弾砲のように浮上航行はできませんでした。リアエンジン・リアドライブの戦車に比べると、戦闘室を大きくできることが自走砲の特長です。
最大射程は1万9000メートル、牽引式の155ミリ榴弾砲M1の同1万4900メートルをはるかに上回りました。当時の米陸軍のM109自走榴弾砲の1万8100メートルにも負けていないという世界標準クラスのものでした。
大きな特徴は自動装填式のシステムをもつことで、砲尾の左右には9発ずつ弾薬を収める回転式のドラム弾倉があります。薬莢と一体化した弾薬筒はドラムから1発ずつ装填トレイに落ち込み、油圧で作動するラマー(装填棒)で薬室に送りこまれました。発射速度は毎分6発とされ、したがって連続射撃3分で弾倉に搭載した弾は撃ち尽くされ、以後は手動装填となります。
また最大速度の連続射撃は砲身や機能に負担をかけますから、実際にはカタログ通りの数値で射撃が行なわれることはありません。毎分2発とか、3発というところに落ち着くのではないでしょうか。とはいえ、15分にもわたる準備射撃、2個中隊10門の射撃ともなると、1門40発としても400発もの15センチの巨弾が敵陣地に降り注ぎます。
射撃統制システムも優れたものでした。パノラマ照準器、直接照準器、電気高低照準器、コリメータでできています。それは以前に米軍から供与されたM44(155ミリ)、M52(105ミリ)の2種の自走榴弾砲より充実したものです。
▼歩戦協同
午前5時、折からの雨を衝いて北見幌別川両岸から攻撃を始めました。左岸は歩兵と戦車が一体となった歩戦チーム、右岸は歩兵だけの単独攻撃でホロベツ海岸に向かいます。
ソ連軍の抵抗は全く見られず、反撃の砲弾も飛んできません。金駒内からホロベツ海岸までの10キロメートルを約2時間で前進しました。7時ころには海岸段丘に達します。
第23戦闘団長は海岸段丘の上から枝幸港、市街地を視察しました。港には接岸している白い船(病院船か?)が見えます。
そこへ連隊本部の2科長(情報担当)がメモを見ながら声をかけました。第25戦闘団から枝幸の状況に関する連絡が入ったというのです。それによると、枝幸市街地にあるソ連軍兵力は人員およそ100、歩兵戦闘車9輌、装甲車数輌、装輪車十数輌とみられるそうでした。病院船は患者などの収容を終えて、間もなく出港の見込みといいます。地上部隊は集積中の補給品に火を点けて焼却を急いでいます。歩兵戦闘車は市街地入り口付近でエサシウエンナイ川を前にして戦闘配置についているとのこと、装輪車は物資等を積載中であるという状況です。
「問題は撤退の時期だ」。そう戦闘団長は言い、2科長には第25戦闘団となおよく連絡をとるように命じます。戦闘団は、ここでしばらく様子を見ることになりました。動きだすのは10時の少し前でした。
▼歩兵の接敵行進
現在ではいささか古典的な接敵行進隊形をとって戦闘団の1個普通科中隊が枝幸市街地への前進を始めました。ソ連軍のBMP-1が装甲車と装輪車を中にはさんで、20数輌の車輌が国道238号線を浜頓別方向に去ったからです。
中隊の接敵行進とは次のようなものです。まず、中隊の本隊から1個小銃小隊が尖兵(せんぺい)として前に出ます。その尖兵となった小隊から前衛分隊がさらに前に出ます。前衛分隊からは2名の路上斥候(ろじょうせっこう)が前に出ました。こうしてホロベツ海岸から枝幸市街地に1個中隊が前進します。これは枝幸の町民に安心感を与えるデモンストレーションでもありました。
64式小銃を構えた路上斥候が2人、雨に濡れた国道の両側を市街地に向かって進んできます。その後方20メートルには左右に4、5人ずつ分かれた一団(前衛分隊)が続いて、その後ろにはさらに20数名の尖兵小隊主力がやってきました。飛び出してきた枝幸の町民は雨と涙で顔を濡らしています。
歓迎の人々に揉まれながら隊員たちはまだ緊張を解いていません。さらに苛烈な戦いが控えているからです。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。