陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(94)自衛隊砲兵史(40) 枝幸(えさし)解放作戦
□新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。また、もろもろのご事情から明るい気分ではない方々もおられましょう。わたしの友人の1人も元旦にご尊父を亡くされました。
人生は「禍福(かふく)あざなえる縄のごとし」とも言います。禍であれ、福であれ、わたしたちは淡々と受け止めよ、受け止めるしかないのだということとわたしは解釈します。「人生万事塞翁(さいおう)の馬」ともいわれます。いまの不幸が、案外将来になると意外なことに幸せだったことの元になるかも知れない、そういった不透明さをいうものでしょう。
昨年の能登を襲った大地震、いまだ復旧すらできていない地域もあるそうです。同じ国民の方々がいまだ天災の被害から苦しんでおられる、なんとも言いようのない事実でしょう。
ウクライナへのロシアの侵攻から1000日が経ったそうです。当初の議論や、分析はどこへ行ったことやら。マスコミは今や「トランプの出現」「夫婦別姓の問題」「石破政権の行方」などなどで手いっぱいのようです。
今年の十二支は「巳」。蛇のことといわれます。蛇は脱皮して大きくなる生き物です。わが国も、ぜひ脱皮をして成長したいものです。
本年もよろしくお願いいたします。
▼ソ連からのゆさぶり
今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
13日深夜、ソ連の外務次官(国連大使)は次のような声明を出しました。
- ソ連人民は、日本側から申し出があった15日午前零時の停戦について日本政府と交渉中である。
- ソ連人民は、日本政府の停戦の決断を容易にするために、北部北海道に進出している部隊の一部を撤収する用意がある。
- ソ連人民は、日本の領土の一部といえども占有する意思のないことを明言するものである。
これらはすべて、日本政府が全く関知しない一方的なものでした。しかし、よく考えればソ連軍の苦衷を表すものです。一部の部隊とはオホーツク海正面から侵攻した増強自動車化狙撃連隊をいい、侵攻作戦のほころびを誤魔化そうとしたのです。
▼ソ連軍の外線作戦
ソ連軍は3つの方向から音威子府(おといねっぷ)周辺に対して求心的に侵攻しました。稚内(わっかない)、天塩(てしお)、オホーツク海からです。稚内と手塩から侵攻した合計で2個自動車化狙撃師団は幌別(ほろべつ)付近で戦力を合わせ、音威子府を衝く態勢を見せました。
オホーツク海側から上陸した増強狙撃連隊は、その兵力不足と兵站支援の失敗、防禦する陸自部隊の地形を利した勇戦奮闘によって、その攻撃力が尽きます。7月12日をピークとして外線作戦は腰折れの状態になりました。
ここで軍事用語を解説しておきます。作戦にはさまざまな区分がありますが、ここではソ連軍の外線作戦と、わが陸自の内線作戦を説明しましょう。
まず、外線作戦とは防衛省の解説を読むと、「外方に向かい作戦する敵に対し、我が後方連絡線を外方に保持して数方向から求心的に行う作戦」とあります。これは「態勢の優越を占め、求心的成功が大であり優勢軍の作戦」ともされています。
この道北戦争ではまさに、これがソ連軍の立場です。防衛する陸自部隊は当然、自分たちから見て外方に作戦します。これに応じて後方連絡線(兵站・人員物資輸送)を外方に保持します。稚内に至る海上補給路、枝幸港と結んだそれにあたります。
ひるがえって陸自の態勢を見ると、内線作戦を採るしかありません。同じく防衛省の見解は「数方向の外方から求心的に我に向かって作戦を行う敵に対し、我が後方連絡線を内方に保持する」とあります。つまり「防衛的、受動的な守勢的作戦」です。
ソ連軍は攻勢作戦を採り、外線作戦で決戦を目指しました。対して陸自は防衛作戦で内線作戦から持久戦を目的とすることになったのです。兵力が過小で、しかも「専守防衛」という縛りがある陸自は決して戦場での態勢を敵より優越することなどできません。
外線作戦を採る軍隊は敵を挟んで位置し、内線作戦の軍隊は常に複数の敵部隊の中にあることになります。
では、常に内線作戦を採る軍隊は負けるかというとそうではありません。たとえば19世紀初めのナポレオン軍は、その機動力と火力を活用し、外線作戦をもって包囲してくる敵軍を各個撃破して勝利を得ていたこともあります。
まず、オホーツク方面から侵攻したソ連軍は陸自部隊の敢闘で戦力を消耗し尽くしました。音威子府方面に集中する3方向の力の1つが撃破されました。外線作戦が腰折れしたというのはこのことをいいます。
▼ソ連軍の撤収準備と企み
7月8日に浜頓別(はまとんべつ)・枝幸(えさし)から侵攻したソ連軍は、2正面から天北峠・咲来峠を目標に攻撃をかけました。しかし、機械化部隊の戦力を発揮するには不利な地形と、25戦闘団の防禦戦闘によって12日には対峙する情勢になったのです。ソ連軍は枝幸港を補給基地として確保し、侵攻部隊への兵站補給を図ります。しかし、10日夕方の25戦闘団と遊撃隊の襲撃で兵站部隊は大損害をこうむりました。
13日夕から侵攻部隊はひそかに撤収の準備を始めます。病院船が枝幸港に入り、三笠山、北見枝幸駅からの部隊の引き揚げはこの一環でした。15日午前零時の停戦と同時に、浜頓別・枝幸から一斉に撤退し、日本政府との交渉材料としようとする企みです。
日本海側ではどういう状況でしょうか。2個自動車化師団が連携して、幌延(ほろのべ・留萌支庁)地区では激しい戦闘が続いていました。侵攻軍には新たな攻勢に出る余裕はありません。そこへ日本側の兵力増援が続き、彼我の戦力は少しずつ日本側優勢に傾いています。
東京では、ソ連大使が外務省に矢のような催促を繰り返していました。とにかく停戦を了承せよというのです。わが政府は首相そのものに戦争指導の方針がなく、現地司令官(北方総監)の同意も得られず、戦争終結の方針もありませんでした。ただ返答を延ばすしかありません。
▼枝幸解放を目指す戦い
こうした中で枝幸解放のための戦いが始まります。問題は市街地や住民に深刻な被害をもたらさないということです。これが専守防衛に徹した戦争、すなわち敵に主導権を渡し、住民を巻き込んでしまう恐れが高い国土戦の原則なのです。
砲迫火力の発揮場所を制限し、市街地戦闘を避けて、敵部隊に周囲から圧力をかけて海上に、あるいは陸路で宗谷方面に追い出すことが望ましいとなります。ただし、これは敵が真面目に抵抗した場合は難しい事態を引き起こします。現地の敵味方の部隊同士が交渉して、退去を要求するか捕虜として拘束することも考慮しなくてはならなくなります。
木元将補は「孫子」の名言、「圍師必闕(いしひつけつ)」、つまり包囲(圍=かこむ)した敵軍(師)には必ず抜け道(闕)を用意しなければならないという原則を引用されています。つまり袋のねずみにしてしまうと「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」という諺通りに敵軍は必死に戦闘し、互いに大きな損害を出してしまうということです。
したがって、枝幸の攻囲を行なう時にはソ連軍に逃げ道を用意しておくということになります。次回はいよいよ74式戦車の激闘が始まります。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。