陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(92)自衛隊砲兵史(38) 激闘!74式戦車
□ご挨拶
いよいよ今年もあと2週間になりました。いろいろなことがあり、さまざまな事件が起き、その多くはいずれ忘れられてしまうでしょう。戦後も80年近くとなり、戦争の直接の体験者は多く世を去りました。
ただし、幼い頃を戦時に過ごした方は、まだまだご健在です。その方々の体験談は戦時生活の悲惨さや、不自由さを語られることがほとんどで、平和を大切に思われる心情を大切にされています。それはそれで重要なことですが、被害者意識だけを育てていくのはいかがなものかと考えるところです。
興味深い経験がわたしにもあります。ある小学校で社会科の学習の一環で、戦争体験の話を集めたことがありました。もちろん、地域学習のことですから戦争そのものではなく「戦時体験」を聞き取ることでした。そのときに、あるおばあさんから小学生時代に「兵隊さんが村にやってきた」という話を聞くことができました。
高射砲陣地が築かれ、兵隊さんが小学校の校舎に入り、校門には小銃をもった歩哨が立っていたそうです。おばあさんたちはお辞儀をして校門に入ります。すると兵隊さんはきちんと姿勢を正して不動の姿勢の敬礼を返してくれたそうです。おばあさんは語り続けました。「兵隊さんはきびきびしてとても格好良かった。軍隊は頼もしかった」
この聞き書きは社会科研究会では取り上げられることもなく、授業にも使えませんでした。悲しかった、辛かったというだけの「思い出教材」と並べて、戦争と暮らしの関わりを教材化しようというわたしの主張は、誰からも顧みられなかったのです。どころか、戦争を美化しようとする、軍隊や兵隊を悪として捉えていないなどと非難も浴びました。
いまも一部の方々からは、小生を「軍隊賛美論者」という批判が聞こえています。
▼精鋭74式戦車
現在では74式戦車は部隊で使われていません。制式化されて半世紀が過ぎて、後継の90式、さらには10式がある現在、たしかに戦車としては旧くなったからです。多くの戦車が溶鉱炉へと放り込まれてゆきました。ただ、ごく一部の車体は保存処置が行なわれ、貴重な予備戦力となるそうです。
ちょっと専門家のご意見を参照しつつ、74式戦車についてご紹介しておきます。まず、戦車砲ですが、施条された(ライフル砲)105ミリ口径です。英国のロイヤル・オーディナンス社が開発したL7A1を日本製鋼所が国産化したものでした。同型砲は英国のセンチュリオン後期型、ドイツのレオパルトI、米国のM60戦車にも採用されていて、当時では欧米では標準的なものです。
この砲が採用された背景には米軍との協同作戦が考えられていたのでしょう。米軍主力のM60と同じ砲弾が使えることは平時の弾薬備蓄量が少ない陸自にとって大きなメリットがあったことと考えられます。砲の性能面でも、NATO諸国やイスラエルでも採用されたものですから不安はありません。
もう一つ興味深いところは、このL7A1は、砲身、薬室、撃発装置と弾薬類等の消耗の激しい部分や部品は、世界的に共通化されているところでした。その反面、砲尾の形状や駐退復座装置(発砲後の後退を少なくし、元に戻す装置)や防楯(ぼうじゅん・砲尾近くの防弾装備)は採用した各国で独自の工夫を開発することが許されていました。
わが74式戦車もその例外ではなく、砲尾の閉鎖装置は米軍で使われる垂直鎖閂(させん)式ではなく、水平鎖閂器を開発します。砲弾を込めるとブロックが動いて砲尾を閉鎖しますが、その動きが米軍M60の場合縦方向なのに、74は横方向に作動しました。これは砲塔の形状をなるべく小さく低くするための考慮だったようです。
▼74の射撃統制装置
初めて導入された装備に、レーザー測遠機や弾道計算機があります。61式では光学
測距儀と数値計算表で射撃統制を行なっていました。特にレーザー測遠機の採用は、世界中でも光学測距儀が主流でしたから、将来の進化を見越した優れた判断でした。
弾道計算機には射撃諸元が自動で入力されます。今日から見ると古臭いアナログ式コンピュータですが、70年代としては標準です。砲撃時に入力する諸元は、測遠機の数値の他には弾道、砲腔の摩耗、装薬温度や砲耳(ほうじ・砲塔と方針の取り付け部)傾斜などでした。
▼砲塔内の様子
乗員4名のうち車長、砲手、装填手の3名が砲塔内に、操縦手は車体前部左側に乗りこんでいます。砲塔制御は砲手も行いますが、車長席には優先制御(オーバライド)を行なえる装置がありました。
砲手は砲の照準射撃を行なうだけではなく、副武装の連装機関銃(砲と平行に設けられている口径7.62ミリ、キャリバー30)の操作も受け持ちました。砲塔上にはM2重機関銃(口径12.7ミリ、キャリバー50)が据えられています。対空射撃なども行ないますが主に車長が操作しました。
ついでに戦車についての豆知識を紹介しましょう。戦車の数え方は「輌」です。自走砲は「門」になります。また、よくいわれるのが「主砲」という言い方の間違いです。「副砲」(主砲より小口径)があった時代ならともかく、現用戦車では搭載する砲は1門しかありません。陸自の部隊でも主砲などと言いません。
また、よく見られる「同軸機銃」という言い方があります。これも不思議な言葉です。軸を同じくするというなら砲の中に入れることになります。陸自の戦車部隊では「連装(れんそう)機関銃」といいますが、マニアの方や雑誌記事では「同軸」とか「連装機銃」と書いてあるようです。「連装機銃」というと帝国海軍の銃身が2つある機関銃をいうと思いますが、いずれも陸自の戦車乗りは使いません。小生の貴重な友人(戦車乗り)はいつも腹を立てています。
実際に乗ってみると、砲塔の砲の横にある連装機関銃がむき出しで、砲身と平行に取り付けられています。射撃したら密室の中で音がいっぱいになって会話どころではありません。
▼砲塔部
砲弾は砲塔後部に即応用を収容していますが、操縦手の脇にも砲弾ラックがあります。ここから砲弾を抜き出して即応砲弾ラックへ補充するのは装填手の役目です。乗員の配置は経験の浅い順に装填手→操縦手→砲手→車長となります。戦車の特徴は小隊長も中隊長も、小隊、中隊の指揮官であると同時に、その戦車の車長であることです。
砲塔は防弾鋳鋼製で避弾形状を重視した設計でした。垂直な壁でガツンと敵弾を受け止めるのではなく、滑らかな曲線を描いていて敵弾を滑らせる形です。側面には片面に60ミリ発煙弾発射筒3基、両側で6基を取りつけています。
次回も74式戦車の解説を続けます。木元将補の描く戦場と戦闘の様子が理解しやすくなるでしょう。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。