陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(91)自衛隊砲兵史(37) 第7師団の攻撃
□ご挨拶
今年も残すところほぼ3週間、やり残したことが多いわたしは忙しくなります。部屋の片づけ、本棚の整理、ゴミ出し・・・、ええいやるぞと思わなければいけません。それなのに、やるぞ、やるぞと口ばかりのわたしは家族に愛想を尽かされています。
政治家の方々と違って、周囲との調整もなく、立派な立場もないわたし。ほんとうに自分がやる気を出して実際に行動すればいいだけなのに、このざまです。そういう点から見ると、政治家の方々は現状をどうお考えなのでしょう。
何から優先的に考えていけばいいのか、それは国民生活の安全と国家の威信の保持です。それが国会議員の皆さまの心の中で明確ではないのだろうと思います。まさか、明日は大丈夫だろうなどとお考えではないでしょうね。いつ起こるか分からないのが有事です。いったん起きたら何をすればいいのか、まだ決めていないのではありませんか。いざとなったらやるぞ、そればかりでは国民に愛想を尽かされるだけではないでしょうか。
今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
▼第7師団攻勢開始
13日の深夜、第7師団の各部隊は「行進加入点(イニシャル・ポイント・IP)」を通過し、「分進点(リリース・ポイント・RP)」で分かれ、それぞれの攻撃発起位置を目指しました。光や音を出さないように工夫しながら、徒歩や車輌で行進するのです。
14日の未明に、宗谷丘陵の幌尻山の東方に空輸された2名のオートバイ斥候がいました。1名が先導し、その後方100メートルほどに1名が続いています。2人はクマザサと低木の中の砂利道を走っていました。
宗谷丘陵は地図を見れば、道北地域を日本海側とオホーツク海側に分ける分水嶺です。海抜は300メートル前後にゆるやかに起伏しています。谷も浅く、敗戦後には外地からの引き揚げ者が入植していました。内陸部の開拓や、炭鉱、製紙のための林業などに従事した方々で、1979年現在では人家もなくなっています。
鬼志別地区を進出目標とする第7師団は、オホーツク海沿岸の幌別平野を貫いている国道238号線を北上することになります。国道の西側には北海道道路がありますが、全体的には道路網は未発達でした。この地域へのソ連軍の配備はほとんどないと判断されますが、敵が存在しないということを確認するのも重要な情報です。第7偵察隊のオートバイ斥候12組が、師団主力に先行して宗谷丘陵にUH-1多用途ヘリで送りこまれました。
▼強力な第7偵察隊
自衛隊が生まれた頃の管区隊(現在の師団)は米軍歩兵師団とほぼ同じ編制でした。第1管区隊は東京都練馬、第2管区隊は北海道旭川、第3管区隊は兵庫県伊丹、第4管区隊は福岡県福岡に司令部(当時は総監部という)を置いていました。
管区隊それぞれに連隊(普通科連隊)があり、その編制の中には偵察中隊があります。この中隊は3個偵察小隊編成で、軽戦車7輌、装甲車5輌、81ミリ迫撃砲3門を持っていました。軽戦車は第2次大戦中に実戦投入されたM24チャ―フィーです。重量は18トン、砲は75ミリでした。
このM24はのちにM41軽戦車に替わります。M41はウォーカー・ブルドッグといわれ、1951(昭和26)年に制式採用されました。重量は23.5トンと大型化し、砲も口径76ミリの高初速のものでした。その場で方向変換ができる超信地旋回性能がありました。
戦車は両側の覆帯(クローラー)を操作することで旋回します。右を停めて左を前進させれば右旋回、逆に左を停めて右を前進に入れれば車体は左旋回となります。大きな旋回半径になりますが、そこは普通の車と同じです。ところが、M41は右を前進、左を後進させれば、その場で左旋回します。つまり回転半径はゼロということです。
右を後進、左を前進させれば、その場で右旋回しました。これを超信地旋回といいます。同車の特徴は、葛原和三元1佐によれば、「痩身ながら、高速でパワフル、パンチ力もあり、三拍子揃った軽戦車だった」とのこと(2011年、「丸」1月号別冊、陸上自衛隊の戦車)。これが7偵には最初に配備されていました。
この当時(1979年)には戦闘偵察小隊は74式戦車2輌をもつ戦車班、小銃分隊(73式APC1輌)、無反動砲分隊(106ミリ自走無反動砲1門)、迫撃砲分隊(81ミリ迫撃砲1門)の編成でした。これは帝国陸軍の捜索聯隊と同じような働きができました。
73式装甲「兵員」輸送車は60式の後継となる車輌でした。1973(昭和48)年に仮制式として採用され、三菱重工と小松製作所で造られました。60式との大きな相違は12.7ミリ重機関銃の射撃が車長席(車内)からできることでした。車体も大きくなり、収容力も2名増えて12名となりました。水上を毎時6キロで航走することもできます。全備重量は13.3トン、エンジンも300馬力を出すディーゼル・エンジンで最高速度は毎時60キロにもなります。前方銃もありました。
▼戦車中隊の出撃
午前4時、第2戦車大隊の1個中隊が前進を開始します。74式戦車10輌、78式戦車回収車1輌、73式APC3輌です。支援は74式自走榴弾砲5門でした。7月8日から前地と主陣地で戦った第2戦車大隊の残存戦力の全力です。中頓別から下頓別方向に進出して7師団の攻撃を先導しようという2師団戦車隊の心意気でした。
この前進開始の直前に、ウソタンの偵察小隊長から無線連絡が入ります。兵安から中頓別の間には戦車、装甲車の配備はない、下頓別付近にT62戦車4輌、BMP-1歩兵戦闘車7輌、BTR-60装甲輸送車3輌が停止中。砲は中頓別方面に指向している。浜頓別平野から宗谷岬方向に移動する装輪車輌が多数見られる。偵察小隊は引き続き敵情を監視・警戒するという連絡です。
戦車中隊長は、中頓別までは無事に行けそうだと安堵するとともに油断大敵と気を引き締めます。戦場に絶対的な安全などないということです。過去、多くの仲間や戦車を失ってきた中隊長でした。戦車戦は秒単位の戦いであることを知りつくしていました。
0420(午前4時20分)ころ、兵安を通過、中頓別方向へ前進中に、戦闘団本部から新しい無線命令が入ります。
その主旨は次の通りでした。
- 中隊は中頓別で停止、その後、7偵が超越して浜頓別方向に攻撃を行なう。超越の細部は7偵の連絡幹部と調整せよ。
- 中隊は、7偵の超越後、歌登(うたのぼり)町中央に前進せよ。
- 25戦闘団は、7師団が枝幸、浜頓別を解放したのち、警備隊を編成して当該地区の警備を行なうとともに民生安定に寄与する。
- 中隊は、歌登町中央到着時をもって警備隊に編入する。編入後の行動に関しては警備隊長(2佐)の指示を受けよ。
0440、戦車中隊が中頓別に到着すると同時に、7偵連絡幹部(1尉)が中隊長戦車の横にジープを寄せてきました。
次回はさらに緊迫した事態をご紹介します。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。