陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(90)自衛隊砲兵史(36) 第7師団動く
□ご挨拶
いよいよ今年も残すところ1か月となりました。今年はさまざまな出来事があり、それらに振り回され、自分自身の老いも感じた1年間でした。いきなりの能登の大地震、それから始まり自然災害も多く、気象もこれまでと違いました。いつまでも暑い夏が続き、短い秋があったかと思うと冬が来て、ときに季節外れの夏のような陽気にもなりました。
そうした中で体力を消耗し、気力まで失うこともあったという状態でした。政治にも大きな変化があり、経済の動きもまた不安定だったようです。自分の判断力や決断力の衰えを感じることがありました。おそらく老化のせいです。年金を貰い、市営バスや地下鉄の優待パスを使い、医療費の負担も2割となっています。
でも、新聞報道によれば70代の人の25%余りは働いているとか。通勤のために町を歩けば、同じように仕事をしている人が目立ちます。この頃、もう一度、自分が青少年だった昭和の時代をふり返っています。
今週も木元寛明元将補の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
▼60式装甲車
第7師団の主要な戦闘部隊は23戦闘団と24戦闘団、それに第3戦車群です。23戦闘団は枝幸を解放し、装甲車化された24戦闘団は3戦群が浜頓別正面からオホーツク海沿いにハンマーの役割をになって突進します。24戦闘団には102装甲輸送隊の60式APC89輌が配属されて、同戦闘団は機動力を高めていました。
APCとは直訳すれば装甲兵員輸送車のことです。60式装甲車(兵員という言葉が使えませんでした)は1960(昭和35)年に仮制式として採用されました。10人が乗れ、車体前方銃(7.62ミリ)と車長席には12.7ミリ重機関銃が載ります。
重量は11.8トン、車体長は5メートル、車幅2.4メートル、車高1.89メートル、エンジンは空冷4サイクル8気筒ディーゼルエンジン、220馬力、最高速度時速45キロ、航続距離は300キロという当時では世界標準の装甲車です。小松製作所と三菱重工で1973(昭和48)年までに約460輌が生産されました。
この装甲輸送隊と第7師団についておさらいをしておきます。1962(昭和37)年に師団化改編の後段として、第7混成団が第7師団に改称・改編されました。大きな変化としては、これまで隷下にあった混成団航空隊がなくなったくらいです。
ただし、輸送隊には60式装甲車が配備され、1個普通科連隊を完全に装甲車化することができるようになりました。また、戦車大隊が他の乙師団(3個普通科連隊基幹)と異なって4個中隊であったこと、特科が完全に自走化されたこと、偵察隊が他師団と異なって戦車をもつ大型の編成を維持したことが特色でした。
▼槍先の第7偵察隊
師団偵察隊は機甲科職種の部隊です。主力の前方100キロで行動して、情報収集を行ない司令部に報告できます。このときは浜頓別から鬼志別間の情報収集だけではなく、状況によっては、敵の反撃や妨害を排除しながら敵中深く貫入(かんにゅう)しなくてはなりません。このために2個偵察班から成る戦闘偵察小隊のオートバイ12輌を空輸し、戦車中隊(74式戦車14輌)が配属されていました。7偵(第7偵察隊)には固有編制として空中偵察班もあります。偵察隊長(2等陸佐)は自らヘリに搭乗して空中から偵察も行いました。
名寄駐屯地の営庭には6機のUH-1と2機のOH-6が待機しています。UH-1のUはユーティリティ(多用途)を現し、OH-6のOは観測のオブザベーションを意味しています。他にはCHは輸送カーゴ、戦闘ヘリはアタッカーのAHなどが陸自にはあります。当時のUH-1という機体はベトナム戦争でも大活躍していました。わが国では富士重工がライセンス生産を行ない、主任務はヘリボーン(空中機動輸送)ですが、地上攻撃用の武装も装備できました。本来は弾着観測や指揮、連絡用のOH-6も同じです。
UH-1には偵察用のオートバイと偵察員を載せることができます。14日の薄明(はくめい)を利用して、浅茅野(あさじの)、猿払(さるふつ)、鬼志別付近に空輸して潜入させます。オートバイ斥候を指揮する2人の班長はベテランの偵察幹部(2尉)でした。
偵察用オートバイはヤマハ製で250・ミリタリーといわれたもので、重量は146キロ、最大速度毎時120キロ、斥候1名が乗り、無線機や各種生存用具一式を搭載して敵中では単独行動を行ないました。
偵察隊は幌別平野、宗谷丘陵に向けて発進します。未明にオートバイ斥候を宗谷丘陵に潜入させ、地上部隊は戦車中隊とともに戦闘行動を行ないながら幌別平野の敵情を偵察することになりました。偵察隊長(偵察隊指揮所)の位置を師団長は知りたく思います。隊長は、当初は地上部隊(レーダー班、戦闘偵察小隊)とともに行動し、師団主力がオホーツク海沿いに北上を開始した段階で、自身がOH-6に搭乗し空中偵察と指揮を行なう予定と答えます。
13日の深夜、空には18夜のおぼろ月が浮かんでいます。枝幸の市街地北方の無人の原野、月光の届かない疎林の端で2人の男が語り合っていました。私服を着た地方連絡部事務所長の曹長と、第2監視哨から山を下ってきた迷彩服に身を包み、小銃携行、携帯無線機を背負った3曹です。
次回はいよいよ決戦の時になります。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。