陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(84)自衛隊砲兵史(30) ゲリラ戦の効果
荒木 肇
□いよいよ総選挙
とうとう1週間後になりました。自民党も必死でしょう。ある見方によると、議席をずいぶん減らしそうです。内閣の支持率も減ってきているし、石破さんも日夜、不安な思いにかられておられるでしょう。
ところで、膨脹主義の中国や、武力侵攻も辞さないであろうロシアの存在、100年ほど前の大正時代末期の状況とよく似ています。関東大震災後の復興に努めつつ、経済界も苦しんでいました。世論が政治に求めることは、経済の向上と国民生活の安定です。そうした中で軍隊には冷たい目が注がれ、軍縮が言われていました。
わたしは当時の陸軍将校たちの研究会誌である、「偕行社記事」を愛読しています。その中から当時の軍人たちの平均的な思考が読みとれるからです。大佐や少佐、大尉といった人たちがそれぞれの立場を背負って思いの丈をつづった記事を投稿します。それに対して、たいへん自由に闊達に議論が展開され、おかげで100年ほど昔の先人たちの実態の一部を知ることができます。
政治に関して彼らは不偏不党、口出しもしませんが、国民世論の動向については高い関心を持っています。その中で印象に残るのは、軍隊は抑止力であり、不戦を目的とする組織なのだという信念です。そうしていざ戦時になったら、必要なのは挙国一致で国家、国民を守ることが大切なのだという気持ちでした。
わたしの知る限りの陸・海・空自衛官もまったく同じ思いをもっています。
▼車輌・弾薬の大量喪失
今週も元自衛官・木元寛明氏の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
午後8時前後の30分間、第2薄明(はくめい)から第3薄明に移る時間帯、合計5個班のレンジャー部隊は各所でソ連軍輸送隊を攻撃しました。護衛の装甲車や大型トラック31輌をすべて撃破します。この数は自動車化狙撃連隊輸送中隊の装備車輌の3分の2にもなる数でした。
その積載した弾薬の量を、浜頓別正面に展開する狙撃連隊の所要弾薬数に換算してあります。まず、T62戦車大隊の1基数分(各40発)、2個自走砲大隊の3基数分(122ミリ自走砲の砲弾各120発)、3個迫撃砲中隊の3基数分(各砲150発)の弾薬がこの攻撃で潰えさってしまいました。
この輸送車輌と弾薬の大量喪失は、オホーツク海正面から天北峠・咲来峠を目指している狙撃連隊の攻撃衝力(しょうりょく)に決定的な影響を与えました。
▼枝幸港住民
ソ連軍に確保された枝幸港の住民たちは一応の安全を保っていました。興味深いエピソードを木元将補は書かれています。それは侵攻するソ連軍への協力者です。すでに数年前からその人物は枝幸の町に出入りしていました。外洋航行が可能なクルーザーをもち、九州の資産家であり貿易商というふれ込みでした。海岸近くのラーメン店にも顔を出していました。
クルーザーは時々、海を越えてソ連に出かけて商売をしていました。経営者の不明なラーメン店には身元不明なライダーたちが出入りもしています。警察も海上保安庁も注目はしていましたが、それらを取り締まる有効な法律もありません。6月中旬には警察の警備係外事担当者が漁業協同組合の理事長に面会を求め、クルーザーと謎のオーナーについての警戒すべき情報をもたらしました。
そうして7月4日、午前4時前のことです。ソ連原子力潜水艦から発射された巡航ミサイルが道内の空自レーダー・サイト、千歳基地に命中、北海道上空の制空権は一気にソ連のものとなりました。
その男が正体を現したのはソ連軍が上陸した時でした。ソ連軍の先遣部隊を案内し、港の関係者にソ連軍の占領方針について説明しました。彼は夫人と見られる女性とともに、道内の情報を集め、ラーメン店を拠点にして多くの工作員を指揮していたのです。
▼枝幸港を防禦するソ連軍
歌登西方の中央付近に進出していたソ連軍は陸自第25戦闘団陣地との接触を避けて10日夜には金駒内付近に後退し、枝幸港を防禦する態勢に移行します。122ミリ牽引砲大隊などが浜頓別方面に動きました。枝幸と浜頓別の間の補給線の警戒のために装輪装甲車3輌が新たに配置されます。
25戦闘団長はソ連軍の配備変更等をつかみ、普通科中隊の一部を歌登に進出させ、金駒内の隘路を挟んで侵攻部隊と対峙する態勢をとりました。
浜頓別正面のソ連軍は、11日いっぱいをかけて態勢を整理して、12日早朝から空地一体の猛攻撃をかけてきます。国道275号線沿いに主攻撃をかけ、ミグ27対地攻撃機による反復攻撃、122ミリ榴弾砲、120ミリ迫撃砲の移動弾幕射撃、T62戦車とBMP-1の突進で天北峠まで一気に突破しようとする構えを見せました。
25戦闘団は、この日を戦闘の山場だと認識し、空自の迎撃機・支援戦闘機の出動を要請し、戦闘団の全力で敵の攻撃を頓挫させます。T62戦車は小頓別まで突入しますが、74式戦車、106ミリ無反動砲、カール・グスタフ、ロケット・ランチャーなどで撃破しました。昼頃にはピンネシリ付近で戦線は膠着します。戦闘団は人員・装備に多くの損害を出しましたが、ソ連軍も戦車、歩兵戦闘車、自走砲などを大量に失います。
幌延付近では千歳から進出してきた第1戦車群が激闘を展開していました。次回は「政治の季節」と木元将補が名付けた日ソ政府間の交渉の描写です。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。