陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(83)自衛隊砲兵史(29) 敵補給路を潰せ!
▼ゲリラ戦の効果
19世紀の初め、ナポレオン率いるフランス軍はスペインに侵入します。スペイン軍はたまらず、首都マドリードをたちまちのうちに陥落させました。英国兵もほうほうのていで脱出します。国土を席巻したフランス軍は正規軍相手には常勝を誇りましたが、一般民衆が抵抗するゲリラ戦には悩まされます。
3年後の1812年のロシア遠征になっても、スペインには20万のフランス軍が釘づけにされていました。その武装した民衆も参加するゲリラ戦を相手にする恐ろしさは、ナポレオンの幕僚だった有名なジョミニも『戦争概論』で書いています。
ただし、正規の軍人でない者が、武装して軍隊や軍人に加害行為をすることは、陸戦条約で厳重に禁じられていました。武器の携帯を明らかにすること、所属を示す被服や徽章を着けること、指揮官がいることなどが「違反行為」から免れる方法の1つです。もし、勝手に武装した市民が捕われると現場で射殺されることもあり、捕虜にもなれません。
そこで、木元将補は作品の中で、グループのリーダーに次のように語らせています。
- 行動の目的、ソ連兵に敵に囲まれているという恐怖心を抱かせる。
- 具体的な目標、単独で行動するソ連兵を猟銃で仕留める。
- 行動要領、夜の闇にまぎれてペアで行動し、一撃後は速やかに離脱する。
- 行動手段、使用する武器は各人の猟銃とする。
- 保全、存在を敵および住民に知られないようにする。
彼らの手にする猟銃は「豊和M1500ヘビー・バレル」という国産の害獣駆除に使われるライフルです。銃身長は610ミリ、7.62ミリ弾を5発装填できる命中精度の高いボルト・アクション・ライフルとなっています。森や茂みの中でも取り扱いのしやすい、照星照門がないオープン・サイトで、当時警察でも2脚を付けて狙撃に使っていました。
彼ら有志は2人で組んで狙撃を実行します。物資集積所などで単独の歩哨を次々と100メートル以内で倒していきました。
▼第25戦闘団遊撃隊の行動
第25戦闘団長は前から5人1組、5個チームからなる遊撃隊を編成していました。隊長はレンジャー課程教官の経験をもつ1等陸尉、合計28名でした。チームは連隊でレンジャー訓練を修了した若手の3曹を集め、指揮官は連隊レンジャー教官の1曹、2曹が充てられました。
チームの装備は、84ミリ・カール・グスタフ無反動砲1門、62式機関銃1挺、64式小銃3挺です。さらに新装備のカール・グスタフが交付されるのと引き換えに返納予定だった89ミリ・ロケット・ランチャーも増加装備としてもっていました。襲撃目標は枝幸港から浜頓別へ弾薬を輸送するトラック群と護衛役のBMP-1、BTR-60を想定しています。
枝幸港から浜頓別まで、およそ30キロ、中間に神威岬(かむいざき)の難所があります。
▼補給部隊への襲撃
7月10日、オホーツク正面侵攻3日目、ソ連軍の戦闘団主力陣地への攻撃も火力の陰りが見えます。この日の午後、枝幸港に大型補給船が接岸し、大量の補給品を揚陸しました。これらの補給品を輸送するために40輌ものトラックが浜頓別から枝幸港に集まってきています。
午後6時ころ、遊撃隊に枝幸西方山地の監視哨から無線連絡が入りました。積み荷は弾薬と思われること、トラックに積載を始め、搭載完了後に梯隊を組んで浜頓別方面に向かうだろうとのことです。遊撃隊長は、梯隊の編成、護衛車輌の車種、数輌、配置について判明次第の連絡を要求します。5個の遊撃チームには全力で輸送車輌を襲撃すること、所定の位置に前進し、待機することを命じます。
各チームは無線で応答し、遊撃拠点から指定された襲撃待機位置に向かいました。カール・グスタフやロケット・ランチャーなどは弾薬といっしょに襲撃地の近所にすでに事前集積してあります。レンジャーたちは予行を積み重ねている、勝手知ったる斜内山地を駆け下りていきました。
午後7時30分、監視哨からは軍用トラックの群れが埠頭から出発したことが通報されます。梯隊は2つに分かれ、浜頓別方向と歌登(うたのぼり)方向に向かうことが明らかになりました。浜頓別に向かう車輌梯隊の編成は、先頭に装輪式装甲車(BTR-60)が2輌、大型トラックが31輌、最後尾に装甲車1輌というものです。9輌のトラックは歌登方向に進みます。
「1945(ヒトキュウヨンゴ・午後7時45分)、車輌梯隊の先頭が目梨泊の市街地に入った」という連絡が入り、隊長は各チーム長に射撃開始を統制させました。8時ちょうどに先頭の装甲車が神威岬から眺める隊長の視野に入ります。
グループ・ワン、S2曹以下5名は斜内集落の東、神威岬から約800メートル西の線路わきで、各自が30メートル間隔で横一線に展開していました。国道までは50メートル、前方にオホーツク海、背後には斜内山の急な崖が迫っています。携行している対装甲車武器は、カール・グスタフ(携弾は4発)と89ミリ・ロケット・ランチャー(同じく4発)です。
2輌の護衛装輪装甲車をまず撃破する、トラックはその後で良いと班長は判断します。成形炸薬弾を装填したロケット・ランチャーは2人の隊員が構えていました。8時10分頃、神威岬突端に装甲車が黒い塊になって姿を現します。時速30キロほどで近づいてきました。車長と乗員も、いずれも隘路(あいろ)を無事に抜けたことで安心しているのかハッチを開けてのんびりしています。
「射撃よーい、目標装甲車、各個に撃て」という号令が班長からすでにかかっていました。
カール・グスタフの射手は、車体前部に照準を合わせて引き金を引きます。弾はすぐに命中、装甲車は十数メートル走って、前のめりに急停車しました。後続の装甲車が急ブレーキをかけるのと同時に、ロケット・ランチャーが弾を吐き出します。2輌ともたちまち炎上しましたが、下車して反撃する武装兵の姿は見えません。とどめに1発ずつ撃ちこまれたロケット弾の効果でしょうか。
班はこのあと、大型トラック群を襲撃します。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。