陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(82)自衛隊砲兵史(28) ソ連軍枝幸に上陸

□総選挙が決まる

 ほうら始まった・・・まあ、わたしは特に石破さん嫌いではありません。一度、会合で話をしたこともあり、そのときの対応は礼儀正しく、腰も低く、決して尊大な姿勢を見せるような人ではありませんでした。

 今回の総選挙の話は、以前の彼の言辞とは異なっていました。総裁になるまでは、じっくり野党と話し合ってから解散、総選挙するのが筋と主張していた人でした。世間もマスコミもこの変身には突っ込みを入れています。でも、このことはとても大切なことを教えてくれているのです。つまり、政治や行政を実行する側を批判、批評するのは簡単ですが、自分がやってみるとなかなか難しいということでしょう。

 そのことは「一度やらせてみようか」という国民の気分で起きた民主党政権の誕生でも見られました。10年ほど昔と同じです。政権与党をやかましく批判し、非難することは簡単でしたが、自分たちが実務を担当したら、民主党はとたんにボロを出しまくりました。大臣は失言する、重要な企画は潰してしまう、さらには個々の議員までが暴言や非常識な行動で有権者を呆れさせます。

 石破政権の閣僚たちの顔ぶれも驚きです。なかには公人でありながら、悲運に倒れた元首相を国賊呼ばわりし、党内の処分を受けた人を入閣者にいました。いくらご褒美でもあまりに露骨な不公正人事です。民主主義への挑戦ともいえるようなテロ、それで倒れた方を指して国賊といい、国葬にも反対していました。

また、隣国のマスコミは石破氏が首相となったことを歓迎するとのことです。「過去を贖罪する気持ちがある」「正しい歴史観を持っている」とのこと。まあ、「君子豹変す」を地でゆく方ですから隣国もあてにしない方がいいでしょう。

失礼ながら短命内閣であれかしと願っています。

▼ソ連軍枝幸に上陸

 政府や内局の方々がばたばたしているうちに、ソ連軍はオホーツク海に面した豊寒別(とよさむべつ)海岸に7月8日未明に艦砲射撃を行ないました。稚内戦線からちょっと北東に離れた海岸です。浜頓別(はまとんべつ)平野に突き出した標高40メートルほどの高地が危険になりました。そこの牧場主一家は、たちまち上陸したソ連兵に蹂躙されます。それを知った地元の猟友会員たちは復讐を誓いました。

 先日もどこの組織の客観的な調査かは知りませんが、列国の一般人へのアンケートで「あなたは国の為に戦いますか」という問いがあったようです。それにイエスと答えたのは、わずか13%だとかいう報道が出ました。それに直ちに「日本人は平和ボケだ」とか「教育がダメなせいだ」とか、憂えるような反応がありました。

 わたしはアンケートには注意しろと言い続けてきました。なぜなら、設問によっていくらでも返答が変わるようなシロモノだからです。今回も「敵が攻めてきたら、あなたは国家のために戦いますか」というような問いではなかったでしょうか。このような聞かれ方をしたら、多くの人が「分からない」とか「しない」と答えると思います。

 何をすれば「戦い」に貢献できるのかが広報されていないし、考える機会も少なかったからです。もし、この発問に「自ら武器は執ることはないが、自衛隊の後方部門の支援を行う」といった答えがあったら、どうなるのでしょうか。きっと、その割合は50%以上を示すとわたしは勝手に考えています。

 そうして地元のライフルを持った猟友会員たちは、地理を知る優位を生かして、占領地のソ連兵を狙撃して倒して行きました。戦闘部隊の多くは主戦場の中頓別方面に向かい、枝幸付近には後方支援部隊や、軍需品の集積地を守るわずかな兵力しか残されていません。

▼ソ連地上軍の兵站

 当時のデータを木元将補は書かれています。ソ連軍はユーラシア大陸で戦う軍隊です。師団は5~6日分の弾薬、燃料、糧食その他の補給品を携帯しています。さらに上級部隊の司令部が1~2日分の予備を用意していました。それ以後の兵站支援は、鉄道やパイプラインなどで上級部隊に送られて、さらに追加補給されます。したがって海上侵攻はまさに、そうした原則から外れた行動となるわけです。

 当時の自動車化狙撃師団(ソ連は歩兵師団を狙撃師団といいます)の編制表を見てみます。人員1万3000人、装甲戦闘車両300輌、戦車270輌、野砲100門、迫撃砲50門、装輪車輌1500輌とあります。これらのすべてを船舶に載せて運ぶだけで大変です。しかも上陸後、1週間後には食糧、弾薬、燃料、衛生材料、整備資材などの補給を継続的に行なわなければなりません。

 航空自衛隊の戦闘機、海上自衛隊の艦艇・航空機による妨害を排除し、自らの輸送船舶の安全を確保し、補給体制を整えることはたいへんな事業です。侵攻したソ連軍への補給は、沿海州または樺太(からふと)からの海上補給路を確保した上で行われます。

▼枝幸港

 4日に上陸した主要部隊への補給基地にはオホーツク海に面した港を必要とします。そこでソ連軍は8日に増強自動車化狙撃連隊を浜頓別方面の制圧にあてました。

 兵站の輸送量の中で最大のものは弾薬です。弾薬は「基数(きすう)」という単位で数えられます。これは射撃火器単位の火器ごとの弾薬数のことです。たとえばT62戦車やBMP-1は1弾薬基数(40発)を携行して0.5基数(20発)を増加携行します。オホーツク海正面に上陸したT62戦車は、この60発で次の補給があるまで戦わねばなりません。

 主力自走砲のSAU-122、122ミリ自走榴弾砲は各砲が1基数(40発)、大隊段列に40発、連隊段列の40発の合計120発で戦います。この砲の持続発射速度は1分間で4発から1.7発でした。すると、最大で70分間で射耗しきることになります。威力の大きく、かつ発射速度の高い120ミリ迫撃砲は、1基数が150発なので、およそ90分で弾を使いきってしまうのです。

 また戦闘には必ず起きる損傷した兵器、車輌の回収・整備が必要になります。また負傷者は連隊救護所に車輌で後送しますが、救護所では応急処置のみです。手術等は師団の野戦病院で行わねばなりません。ソ連軍は、そこで枝幸港を補給基地とし浜頓別への後方連絡線を確保することになりました。

 次回は陸自レンジャーを中心にした「遊撃隊」の戦い方を紹介します。

(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。