陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(80)自衛隊砲兵史(26) 血戦は続く

□自民党総裁選は大熱気

 わたしは今回の自民党総裁選には大きな関心を抱いています。それは、女性候補の高市さんが前評判をずいぶん上げていることです。友人から聞いた話ですが、高市さんは、もしも自分が総理大臣になったら、毎朝執務室で「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって・・・」という自衛官の宣誓を必ず唱えるとのこと。自衛隊の最高指揮官であるという立場を自覚し、自らも自衛官と同じ心構えで身を処するといったお気持ちなのでしょう。お見事です。他の候補者にはそういった話はありません。

 地方を守るといったことをウリにする石破さんは何なのでしょう。地方は国の下にあるものです。具体的な防衛政策を語らずに、いや防衛費を増やすとは言われていますが、最高指揮官になる自民党総裁、総理の具体的な姿が見えません。

彼が防衛大臣のときには悲しい事故がありました。そのとき詳しい調査もなしに一方的に護衛艦側の責任をいい、現場の指揮官、乗員を罵り、処分を命じるという「文民統制」を演じられました。ところが、その後、護衛艦側には責任がなかったことが明らかになったのです。彼はその誤りを詫びることなく、しっかりとぼけていました。防衛の現場など、政治家、官僚の下にあればいいのだと思っているに違いありません。

▼国防会議には戦争指導の権限はない

 国防会議は戦争指導を行なう組織ではありません。本来、戦時の指導は最高指揮官たる総理大臣によるものです。この仮想戦記(元自衛官・木元寛明著『道北戦争1979』)では総理大臣はおたおたとしているばかりでした。防衛庁には背広組の参事官はじめ多くの官僚(内局という)がいますが、これもろくに働けない。

 それはそうでしょうね。いざとなったら戦争の専門家になろうとして防衛官僚になったわけではないのです。不思議なことに、警察予備隊の発足時から背広組が制服より優位に立つことが「文民統制」だと思われてきました。帝国陸軍のような横暴な組織にしない、そのため指揮官クラスの軍人をすべて排除したくらいです。

 軍隊は政治家・官僚の命令に従っていればいい・・・というのが「日本型シビリアン・コントロール」の解釈でした。現在もそう思っている方が多いのではありませんか。実は、この政治家・内局と部隊の関係は、国際的にはなかなか珍しい制度です。

 治安行政の警察から発足した、そういった歴史を背負った自衛隊ですから世界でも珍しいシステムを持っています。それに政治家、官僚、国民も馴染んできたので、総理の命令で何でも動くし、現場の部隊は勝手に動かないと思い込んでいるだけなのです。それが戦時になって、そうならなくなったらどうするかという問題があります。

▼自衛隊法第77条

 防衛庁長官(当時)は、事態が緊迫して防衛出動命令が出されることが予想されるとき、防衛出動待機命令を出せます。これによって部隊は燃料・弾薬・医薬品・装備・人員などを準備して、出動命令が出たら直ちに動くのです。この待機命令は長官の要請によって総理大臣が承認をした場合に出されます。これによって自衛隊の全部、あるいは一部の部隊は前述の待機状態に入れるのです。

 この矛盾を衝いたのが「栗栖統幕議長更迭事件」でした。この『道北戦争』の前の年、1978年10月18日の栗栖陸将の発言が大きな波紋を起こします。敵の奇襲攻撃が行なわれたときには出動待機命令、そして実際の出動命令が下令されるまで、どうしても時間がかかります。敵の攻撃を受ける、その事実を部隊上部に報告する、師団司令部や総監部から手順を踏んで内局に報告が上がります。大臣はそれから内局の官僚に・・・。

 当然、時間のズレは大きくなりましょう。制度上では自衛隊は、その間、やられっぱなしになります。もちろん、民間人が撃たれる、爆撃で被害を受けることもありましょう。もっとも危険が大きいのは自衛官です。しかし、攻撃されても自衛上の反撃しかできません。武器使用の制限もありました。機関銃で撃たれたら機関銃でしか対処できない、火砲を使ったら過剰防衛だというのです。

 笑い話もあったようです。記者会見で専守防衛をいう内局官僚に新聞記者が質問しました。「防衛出動命令が出るまでは戦ってはいけないというのなら、自衛官はどうするのですか」と聞かれて「山の中にでも逃げればいい」と答えたというのです。これは内局の官僚の責任ではなく、そういう法解釈のままに放置した政治家や、ひいては国民の責任でしょう。

▼栗栖統幕議長の勇気

 「自衛隊は超法規的行動を採る」と答えたのが、1978年の当時、統合幕僚会議議長を務めていた栗栖弘臣陸将でした。実際に攻撃を受けてから、総理大臣の命令が出るまでには必ず時間的なズレがある。そこで現場の指揮官は、敢えて法を守らないという態度を採るというのです。これは雑誌の取材に答えたものですが、今から考えれば、その現実的判断は誰もおかしいとは思いません。

 ところが、当時は大騒ぎになりました。もちろん反自民の社会党をはじめ野党や、マスコミが抱える文化人、有識者などは「自衛隊トップの反乱」と口をきわめて罵ります。自民党内部ですら「法律で定められたシビリアン・コントロールを無視するもの」と栗栖陸将を非難する声が上がります。

 当時の雑誌記事や新聞を読むと、多くの「市民」という人たちからも「自衛隊は法律を守らない恐ろしい集団だ」とか、「憲法9条を無視する自衛官」、「解散させて国土建設隊にせよ」、「非武装こそが平和への道だ」などという世迷言が満載です。ある大学教授は言いました。「平和愛好国の中国や北朝鮮、ソ連と話し合いをして世界平和に貢献することが日本の使命なのだ。アメリカに追随している自衛隊は許せない」と語っています。

 そうした常識が、世間の気分が1980年ころにはあったということを今一度思い起こすべきでしょう。金丸信防衛庁長官は栗栖さんを罷免します。

▼仮想戦記『道北戦争』が教えること

 さて、北海道への侵攻を行なったソ連軍との自衛戦闘は、さらにどういう経過をたどるでしょうか。実は、当時の第2師団長は明らかに法令に違反し、長官や内局の人たちの承認や許可を得ることなく、兵器・弾薬を動かし、部隊を展開し、戦闘を始めていました。シビリアン・コントロールが許さない勝手な行動です。

 しかし、実際に戦闘は起こっています。山の中に逃げることもなく、自衛隊は戦いました。その状況はマスコミによって世界中に広められています。作品の中では防衛省の参事官が「防衛待機命令を発令した日時をいつにしたら良いか」と陸上幕僚監部の運用課長に尋ねたという伝聞情報があったとしています。帳尻合わせをしようとする内局の意向に対して、運用課長は厳しく拒む姿勢をとりました。

 師団長の独断によって第2師団は7月1日から自衛戦闘の準備に入り、不十分ながら防御陣地を構築しています。これは明らかに法令違反であるわけです。実際に師団から上申が出た時に、あれやこれやの与野党間調整や内局内部の議論など無くして、すぐに待機命令を出しておけば、もう少し有利な戦いができたわけでした。

 もし、参事官の言う通り、さかのぼってウソの待機命令を出したとしたら、その後の不利な戦闘経過の責任は自衛隊が、直接的には第2師団がとるということになってしまいます。

(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。