陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(78)自衛隊砲兵史(24) なぜソ連軍はやってきたか?
□ご挨拶
報道統制と無関心。そんなことを思います。先日は中国空軍、海軍の領空・領海侵犯があり、尖閣には依然として中国公船による領海への侵入行動があります。しかし、それらを報じる、それらへの対応を追求する報道はありません。どうやら意図的にマスコミも政府も情報を隠しているのでしょう。
反体制、反権力を標榜とするマスコミも、「本来の敵」と何らかの取引を行なっています。先日も元外交官が一般世論の浅慮をたしなめる発言をしていました。「経済的に密接な関係がある中国のメンツを潰すようなことは国益に反する」というのです。遺憾であるという遺憾砲はすかさず撃つ、しかし外務大臣が中国の大使を呼び付けるようなことは非礼だともいいます。
なるほど、とても大局的な見方を外務省はしているのだ、さすが高度な判断をわが官僚や政治家はしている、任せておけば間違いはない・・・と感心する人はどれほどいるのでしょう。そうした上級な知性のある国民は、少なくともわたしの周りにはおりません。わたしも、そうしたお仲間と一緒に低い知性で判断しています。あまりに弱腰に過ぎるのではないか。外務省の方々も、自民党議員にも軍事的な知識・判断力があるのでしょうか。
▼見殺しにされる陸上自衛隊と住民たち
今週も元自衛官・木元寛明氏の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。
空自三沢基地にある第3航空団、第3飛行隊にはF1支援戦闘機12機がありました。サポート・ファイター、支援戦闘機とはなんでしょうか。何を支援するのでしょう。実はF1戦闘機は列国がふつうにアタッカー、攻撃機という機種です。「攻撃」などと名称は、憲法9条による専守防衛にはふさわしくないという意見があり、マスコミもまた手ぐすねひいて難癖をつける用意をしていました。
そこで、地対艦ミサイルや爆弾を搭載はするけれども積極的な攻撃はしない、着上陸する敵輸送船や艦船と戦う陸上部隊を支援するというのでしょう。そうした建て前で命名したのだと思います。東西冷戦、ベトナム戦後、1970年代はそうした時代でありました。
稚内市民からは「空自の戦闘機はなぜ、飛んで来ないのだ」、という声が出ています。陸上自衛隊部隊でも腹を立てた隊員達から不満の声が上がります。何のための航空自衛隊なのか、そうした世論が現地では湧きあがっていました。
パイロットたちからも「なんで俺達は出てはならないのだ」という声があります。航空自衛隊の北部航空方面隊司令官が許さないなら、「第3飛行隊だけでも行こうじゃないか」という気分も出てきました。北海道の千歳基地から避退してきた第2航空団のF4EJファントム戦闘機8機も直掩戦闘任務に就くべく待機しています。攻撃機はどうしても純粋な戦闘機より弱点がありました。それをソ連戦闘機から守るべくファントムは戦うのです。
旭川の陸自第2師団に派遣されている空自連絡幹部(ALO)からも、稚内上空のソ連軍機の乱舞が通報されています。F1攻撃機の出撃要請が催促されていました。
▼航空総隊はのらりくらり
三沢基地には方面隊指揮所(SOC)が開設されています。第3航空団司令は第3飛行隊長を帯同して北部航空方面隊司令官にF1とF4の出撃の許可を申し入れました。ところが、司令官の歯切れはひどく悪いのです。東京都府中にある航空総隊司令部に飛行許可を出して欲しいと言ったのですが、総隊司令部はのらりくらりとするばかりで、どうやら政治的な動きがあるらしいとのこと。
どうやらソ連は戦場を北海道北部に限定するという「制限戦争論」を日本政府に吹き込んでいたらしい、そうした観測がありました。問題は憲法9条です。当時、政権与党や財界も含めた世論に、制限戦争論は大きな影響力がありました。自衛官は主張します。
自分たちの制限戦争は、ソ連の本土、沿海州やサハリンは攻撃しないということで、北海道はわが国の国土です。領土、領海、領空には聖域はないはずだ・・・それが現場の最前線に立つ自衛官たちの本音でありました。
▼いかなる処分も敢えて受ける
命令違反ということなら、あえてその処分を受けます、政治家や防衛庁内局の幹部達の保身のために国民や第一線の隊員の期待は裏切れませんと航空団司令は言いました。どうしてもだめなら目をつぶってくれという司令に方面隊司令官は、自分の責任で出撃を許可すると断言します。
そのころ、六本木の防衛庁(日本陸軍の歩兵第1聯隊跡地・檜町駐屯地)では、多くの黒塗りの公用車やマスコミの車、テレビ局の中継車でごった返していました。
有事だから「中央指揮所」を設けるという声も出ましたが、まだ机上プランです。当時の5号館の5階には統合幕僚会議のオペレーションルームがありましたが、報道陣は入ることがせきません。作戦に関する情報をオープンすればソ連軍に利用され、現地部隊に不利になるからです。それに報道陣の中にはもちろんソ連や中国、北朝鮮の工作員が入っています。
こうしたことを木元将補は書かれていませんが、実際、戦前のゾルゲ事件でも分かる通り、諜報員は多くが報道機関に所属しています。リヒャルト・ゾルゲはモスクワの諜報機関から指示を受けた新聞記者でした。ドイツ大使館武官にも信用されナチ党員の資格を取り、大使館内部にも顧問として信頼を得ていました。
同じように尾崎秀実(1901~44年)も帝国大学出の優秀な新聞記者であり、満鉄調査部にも食い込み、中国問題の専門家として政財界への出入りも自由でした。ゾルゲと尾崎は、ソ連侵攻よりも南方進出を行なうという重要情報をキャッチし、モスクワのスターリンの下へ送って、そのスパイとしての役割を果たしました。興味深いのは彼が「日本人民のためだ」という正義感を強くもっていたことでしょう。
実際、え、あの人がと思うような人物が敵性行動をとっているのが当たり前です。ふだんからマスコミ人は首相官邸や外務省、警察庁などの担当者たち同士で連絡を取り合って情報交換をしています。政治家や官僚たちの脇の甘さにつけ込むのも当然です。どうもわたしも含めて、わが国民の意識はそういう点では低いと思います。
次回は政治の世界の話と稚内の攻防を教えていただきましょう。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。