陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(77) 自衛隊砲兵史(23) ソ連軍第2波の上陸

□ご挨拶

 皆さま、どうお過ごしでしょうか。大型台風と線状降水帯、また各地で被害、亡くなられた、けがをされた方々の報道があります。たいへん悲しいことです。また、今年初めの能登半島地震の復旧も遅れ、陸上自衛隊による生活支援(入浴等)もようやく終わるとか報道されています。長い8カ月だったと県民の方々の思いを考えると、停電だ、米が不足だなどと言うわたしなど、文句を言える立場ではないでしょう。

 また、ようやく調査が始まった兵庫県知事の問題も、私たちの現在を考える大切な機会になります。それは社会で生きてゆく上での自分の「保身」ということです。誰にでも背景があり、守るべき暮らしがあります。それを危険にさらしてまで守るべき正義があるのかということでしょう。

人事権をもつ圧倒的強者の行なう悪事を告発する、たいへん勇気が要る正義に裏付けられた尊い行為ですが、それを処分する権力者がいました。それを止められなかった人、加担してしまった人もいます。

 ついでに言えば、正義は人の数と同じだけあります。単純な「シロクロ」話にするのは、ある傾向をもつ方々の常態ですが、中国空軍、海軍による領空・領海侵犯がありました。政権与党の総裁選が話題になっている時です。おそらく、各候補の反応を確かめているのではと思います。

 

 時を同じくして中国に超党派で出かけた国会議員たちがいました。何を話し、何を聞かされてきたのでしょうか。

▼ソ連軍第2波の上陸

 第1波の壊滅、その4時間後に第2波による上陸が行なわれます。その前にはソ連軍機による空襲がありました。ミグ27対地攻撃機、それを護衛するミグ23戦闘機が稚内上空に進入し、陸自15榴、MSSR、戦車や抜海の陣地を爆撃しました。ミグ27は23ミリバルカン砲1門、空対地ミサイルAS-7を4発搭載しています。抜海上空には空自の戦闘機は姿を見せません。

 抜海の台上陣地は原型をとどめないほど艦砲射撃が加えられました。第2波が海岸へ向かったとき、これを射撃できたのは75式15自走榴と107ミリ重迫撃砲だけでした。なぜ、青森県三沢基地の空自機は飛んで来ないのだろうか・・・前線の中隊長は、はらわたが煮えくりかえっていました。

 三沢には第3航空団第3飛行隊のF1が12機いたはずです。空対艦ミサイルと爆弾をもっています。このとき、支援戦闘機とされていた対地攻撃機F1が登場してくれたらと好き放題に艦砲射撃を行なうソ連軍艦と上陸用舟艇の群れを見ながら中隊長は腹を立てていたのです。

▼反斜面陣地前縁のキルゾーン

 抜海の中隊長は台地に登ってくる敵を、その頂点で迎え撃つつもりでした。台上に進出したPT76、BMP-1、歩兵などに対して、62式機関銃、64式小銃、15榴、重迫、81ミリ迫撃砲、106ミリ無反動砲、74式戦車、重MATなどを全力集中発揮して、敵上陸部隊を撃滅しようと考えていました。しかし、その勝負は一回きりと分かっています。

 9時30分ごろ、ソ連海軍歩兵大隊はPT76、BMP-1を先頭に、台端から一気に中隊の陣地に突入をしてきます。2か所の道路から台上に顔を出した敵部隊は、左右に素早く展開して、横隊隊形を維持したまま、わが中隊の陣地に迫りました。

 「突撃破砕射撃開始」、中隊長は命令を下します。敵の突撃を破砕する、猛烈な全火力発揮の行動です。指定された火力集中点はたちまち火炎と爆煙に包まれます。敵装甲車輌の大半が擱坐(かくざ)炎上し、歩兵部隊は台端まで後退しました。擱坐とは撃破されて、行動の自由を失うことです。乱戦になりました。

 その乱戦の中で2発のサガ―・ミサイルが戦車小隊長の搭乗する74式戦車の砲塔に命中します。戦闘室内に火災が起きて弾薬が誘爆し、砲塔が吹き飛びました。火災発生と同時に操縦手は車外に脱出しますが、小隊長と砲手、装填手は戦死します。

 激しい戦闘の結果、わが守備隊は装備・人員に大きな被害を出しました。ソ連軍海岸歩兵も大損害を受けますが、台端を確保することで、防禦側の直射火器の射撃を阻止できる地線(ちせん)を占領して、地上軍本隊のための地積(ちせき)を確保します。

▼第26戦闘団の戦い

 ノシャップ岬の広さは、大東亜戦争末期の激戦地、東京都下硫黄島とほぼ同じだそうです。第26普通科連隊を主力とした連隊戦闘団(戦車中隊は欠)は7月1日に陣地構築を始めました。この岬は声間海岸と稚内港に対しての榴弾砲や迫撃砲の射撃拠点として重要な価値をもっています。

 地形はテーブル状になっているので、攻略には戦車や装甲車が使えません。地上から攻撃が可能なのは歩兵のみ、といったわけで空軍の支援しか受けられないのです。ノシャップ岬の大部分は公有地でもありました。弾薬の事前集積などにもたいへん有利です。

 第26戦闘団は、75式15センチHSP(自走榴弾砲)を10門、107ミリ重迫撃砲12門、81ミリ迫撃砲16門、106ミリ自走無反動砲16門、84ミリ無反動砲(カールグスタフ)48門をもっています。

 岬の東方にある声間海岸に上陸したソ連海軍歩兵には15H、稚内港に接岸しようとする艦船には重迫と81迫が猛烈な射弾を浴びせられました。107ミリの重迫砲弾の破片効果は長径40メートル、短径15メートルという広範囲です。81ミリでも同じく20メートルと15メートルというものでした。

 上陸する敵は機械化部隊であり、弾薬や燃料などの兵站の量は膨大なものになります。このためローロー船(RORO・Roll-in/Roll-off  Ship)を使うことが必要になります。LOLO船、ロ・ロ船と表記される船もあるので、両者を混同されることも多いようです。こちらはLift-on/Lift-off Shipの略称になります。デリック、またはクレーンで荷物を積み上げ、積み下ろし、いわゆるコンテナ船のことをいいます。

 ソ連軍が使うローロー船は、貨物・物資の積み下ろしのために側面や船尾にゲートをもち、トラックやトレーラーが船内を自走し、あるいはフォークリフトなどを使って荷役を行ないます。民間仕様のカーフェリーに似ていますが、貨物しか運びません。

 このローロー船を使うために、ソ連軍は稚内港の早期占領が必要になります。しかし、射程に港内を含める重迫や迫撃砲がノシャップ岬に健在である限り、港湾施設の利用は限定的にならざるを得ません。戦闘団の隊員約2000名は、岬を死守する覚悟で3週間分の弾薬を備蓄しています。

 なんというリアルな仮想戦記でしょう。木元将補のおかげで、40年ほど前の陸自の実態が見えてきます。この後、稚内港をめぐる戦いが行なわれます。空のカバーのない陸自部隊の戦い、さらには敵の策源地への攻撃を禁じられた自衛隊はどうなるのでしょう。そうして、当時の政治家達、防衛省の内局の人たちはどう考え、どのように行動していたのでしょうか。次回はそこにも触れて行かねばなりません。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。