陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(76)自衛隊砲兵史(22) ソ連軍上陸す(抜海台地の戦い)
□戦車団
1974(昭和49)年8月、第1戦車団が新編されました。戦車数は222輌、3個戦車群で、のちに第2、第3戦車群は第72戦車連隊、第73戦車連隊の基幹部隊になりました。各戦車群には戦車中隊の他に本部管理中隊があり、本部班、人事班、整備、通信、指揮、偵察、衛生、補給の各小隊がありました。団全体でも装甲人員輸送車38輌があり、戦車回収車3輌が配備されています。
□51大綱と機械化師団誕生
第4次防衛力整備計画(昭和51年度で終了)の後に用意されたのが、「基盤的防衛力構想」という考え方が導入された「防衛計画の大綱」です。それによれば全国は14区画に分けられます。
北海道が3区画(道北・道東・道央)、東北地方は北部・南部で2区画、関東、甲信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州が北部・南部の2区画、それに沖縄で合計14区画になります。すると戦略単位は14個必要になりますが、四国と沖縄には2個混成団を配置し、他の12区画に師団を各1個配備すると、12個師団2個混成団という全体像が浮かびます。ところが、四国には混成団がありません。そこで混成団を新編することにしました。
さらに「主として機動的に運用する各種の部隊を少なくとも1個戦術単位を保有すること」という規定がありました。機甲師団、特科(砲兵)団、空挺団、教導団、ヘリコプター団を指します。そこで未だ編成されていない機甲師団を新編するため、第1戦車団が廃止されました。
この戦車団こそが『道北戦争1979』(木元寛明著)で、第2師団の増援に駆けつける機動部隊でした。
▼ソ連軍上陸す
午前4時20分、ソ連軍の上陸第一波が抜海海岸に押し寄せます。横一線に並んだPT76が先頭を切って、その後方には中型の上陸用舟艇が続いていました。海軍歩兵大隊と戦車中隊でしょう。
PT76が汀線(ていせん・波打ち際)に達すると、友軍砲兵が支援射撃を行ないます。VT信管による曳火(えいか)射撃の弾がソ連兵の頭上に炸裂しました。電波を自ら出しその反射を測定して信管が起動するのがVT信管です。昔は実際に着火された導火線が見えたので曳火といいましたが、いまも言葉だけが残っています。地面にぶつかったり、堅い物にあたったりすると起爆する着発信管とは異なります。上空から下方に向かって破片が飛び、目標地点付近を掃射するのが曳火射撃です。
▼戦車の射撃と弾
中隊長は同時に重MATや戦車に射撃開始を命じました。「砲手、たいりゅう(対戦車榴弾)、戦車、撃てっ!」、戦車内で車長の射撃号令が出されます。砲手は照準潜望鏡のレクチル(十字線)で敵戦車を捉え、レーザーを発射して正確な距離をつかみます。
装填手は砲塔左側面にある立て掛け弾薬架から榴弾(HEAT)を取り上げ、左手で弾頭基部(信管部)を持ち、右手の手のひらで弾底(雷管部)を支えて、砲尾装置から薬室にそっと入れます。最後は拳骨にした右手で一気に押し込みます。重さ52キロの閉鎖機に指先を挟まれないためです。閉鎖機がガチャリと閉まると、装填完了のボタンを押してランプの点灯を確認、「装填よし!」を報告します。
この対戦車榴弾(HEAT)はヒートと略称される「成形炸薬弾」のことです。主に対戦車用であるので「対戦車榴弾」といわれています。戦車砲の他にも、対戦車誘導弾、個人携行の対戦車ロケット弾や、無反動砲の弾薬として幅広く使われています。対戦車ヘリのAH-1がもつTOWやAH-64のヘルファイアのようなミサイルも、この成形炸薬弾が使われてもいます。炸薬を漏斗状に成形してモンロー効果を得るための弾で、貫徹力ではなくて装甲板を溶かす作用をもっているのです。
▼第一波は重大な損害を受けた
砲手は装填完了を確認すると、「発射!」と大声で注意を喚起します。乗員がそれに備える時間を一呼吸作って照準器ハンドルの撃発ボタンを押します。命中は0.8秒後、敵戦車の砲塔に命中します。発射後の砲身は約30センチ後退して閉鎖機が開き、熱く焼けた撃ち殻薬莢が戦闘室の中にガランと音を立てて落ちました。4門をもつ重MAT小隊も次々と必中の射撃を行ないます。飛翔速度は200メートル/秒ですから、1000メートルの距離があっても5秒で命中しました。
第一波は威力偵察部隊の性格をもちます。威力偵察とは戦術用語です。敵情が不明な時に、情報を得るために限定目標の攻撃を行ないます。とは言っても、攻撃の実態は通常の攻撃と変わるわけではありません。ソ連海軍歩兵の第一波上陸部隊の目標は当然、後続部隊が頼れる海岸堡(かいがんほ)の設定です。ですが、第一波は敵の配備についての情報をほとんど持たずに、不期遭遇戦(ふきそうぐうせん)、準備も無くいきなり敵とぶつかる戦闘を余儀なくされます。
有名なのが日露戦争の旅順攻囲戦です。乃木第3軍の第1次総攻撃はまさにこの威力偵察行動でした。要塞の火砲配備も堡塁についてもほとんど事前情報がありません。そうなるとあたってみるしか仕方がありません。
ソ連軍第一波は貴重な情報(陸自部隊の配備、兵力、火砲の威力など)を得ることと引き換えに、ほぼ全滅に近い状況となりました。
次回は4時間後の第二波の上陸です。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。