陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(75) 自衛隊砲兵史(21) 「ここで戦う意味は何か?」

□はじめに

8月15日がやってきました。ポツダム宣言を受諾し、国民に昭和陛下が自らの声で語りかけた玉音放送が行なわれた日でした。この日の前後にはマスコミや論壇で、さまざまな主張がされるのが当たり前になっています。

ところで、そうした声の中でソ連軍による無道な北方領土侵攻があったこと、それに対して決然と自衛戦闘に入った陸海軍部隊について言及することが少ないのではありませんか。やはり、戦後すぐからの親ソ連派への忖度でしょう。

マスコミを中心にして「終戦記念日」というイメージ作りにいそしむ勢力に不快を覚えます。

▼台端付近に射撃陣地を

 陸軍には「側防」という言葉があります。主陣地からの射撃・砲撃にクロスするように射撃線を設けることをいいます。「十字砲火」という言い方もありますが、クロスファイアのことです。

 1輌でも多くのソ連軍戦車を海岸で撃破したい・・・そう考えた普通科中隊長は配属された戦車小隊長に希望します。台端付近に弾巣(だんそう)を避けられる陣地を築けないかと言うのです。弾巣というのは敵の銃砲弾が集中する場所になります。

 台地の上の左右には幸い戦車が置けるような平地がありました。そこから海岸までの距離は700~800メートル、重MATや戦車砲にとっては必中の距離です。しかし、同時に敵からもよく見えることでしょう。そこに艦砲射撃を受ければ、配置部隊はたいへんな損害を受けます。しかも撃ち下ろしという射界の制限が加わります。

 ところが、わが74式戦車には姿勢制御装置が付いていました。これは現在の10式戦車も装備していて、わが陸自の主力戦車の大きな特徴になっています。油圧の力で後部を持ち上げ、前部を下げることができるのです。上陸地の中央部の防禦火力が減ってしまうが、重MATの配備で補おうと中隊長は考えました。

▼俺たちが戦う意味は何か

 戦車小隊長と普通科中隊長の口を借りて木元将補は語ります。「ここで戦う意味は何か?」という小隊長の質問に中隊長は答えました。国土を守り、国民を守る、国の独立と主権を守る、そういった教育は常に行なわれています。平時はそれでいいだろう、しかし今は自分の大切な生命を懸けた実戦です。自分たちがここで戦うことがどんな日本につながるのだろう、そうした疑問が生まれたというのでしょう。

 若い戦車小隊長に普通科中隊長は答えます。「何のために戦うか、それは敵がやってくるからだ。極東ソ連軍は宗谷海峡を自由にしたい。そうであるから道北(北海道北部)を占領したい。サハリンと北海道北部が占領できれば、ソ連海軍は安心して日本海からオホーツクへ出ることができる。もう1つは稚内港の確保だろう。不凍港を得たいというのがロシア時代からの傾向だ。いま、アメリカもベトナム戦争以降、アジアに眼が向いていないというのもソ連の意思を後押ししているかも知れない」

 当時、陸自の保有する火砲の最大射程は67式30型ロケット弾の28キロでした。したがって稚内港から半径30キロの地積は欲しいだろうと中隊長は言います。安全率もありますから、その距離は40~50キロは必要です。すると、地形を考えても音威子府(おといねっぷ)以北がソ連軍の手にしたい地域になります。

 それを守るのは旭川に司令部がある第2師団です。ですが1個師団では兵力が不足、第2師団が時間を稼いでいる間に第7師団や戦車団がやってきます。その時間を稼ぐのが戦闘団の使命でもありました。

▼戦車団とは

 当時の陸自には方面隊、師団、団という大きな単位があります。現在は旅団ができましたが、いまも第1空挺団、第1特科団、第2特科団、第1ヘリコプター団、施設団、高射特科団などが有名です。いずれも陸将補(陸軍少将)が指揮して複数の連隊や大隊などが編制下にあります。

 この1979(昭和54)年は、第4次防衛力整備計画(1972年度~76年度)が終わり、「51大綱」が定めた態勢の中にありました。それはわが国の防衛力を大きく変える施策でした。第7師団を機甲師団化するために第1戦車団を廃止したのです。

 その第1戦車団は1974(昭和49)年8月に、それまでの第1戦車群を編合(へんごう)して生まれました。編合というのはいくつかの部隊を合わせて新しい部隊をつくることを言います。

 この第1戦車群は1955(昭和30)年の「防衛六ヵ年計画」で翌年に生まれた第1特車群が始まりです。当時は戦車を特車と言い換えていました。第104特車大隊、第101特車大隊、第103特車大隊で第1特車群が発足します。

 この部隊は当時、特車を持たない北部方面隊の混成団などの機甲兵力の不足を補填するためのものでした。群本部と本部中隊、それに3つの特車大隊がありました。軽戦車(M24)が2輌、中戦車(M4)が69輌、それに戦車回収車(M32)が5輌と記録があります(「日本の機甲100年」2019年)。

 また、1961(昭和36)年8月の改編で第103特車大隊は軽戦車M41に換装されました。M41については、これも貴重な記録や談話が残されていますが、いつか別にお話したいと思います。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。