陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(74) 自衛隊砲兵史(20) 第3連隊戦闘団の戦い
□はじめに
お盆休みをいかがお過ごしでしょうか。とにかく暑い、その中でわたしは航空自衛隊熊谷基地にお邪魔しました。帝国陸軍の飛行学校があったところです。籠原(かごはら)の駅を降りると、ほんとうに平らな地形が広がっていました。もちろん、天候は晴れ、気温も35度以上です。
空自の皆さんは多くの研修を用意して下さり、お世話になりました。そのご対応ぶりはほんとうに嬉しいことでした。堅苦しくなく、皆さんにこやかでソフトなご案内は何よりの清涼剤です。そして、私にとっては素晴らしい再会がありました。保存展示されていたF86Dセイバードッグ戦闘機です。
空自のジェット戦闘機は朝鮮戦争で活躍したF86Fセイバーが始まりです。機首のエアインテークの両側に12.7ミリ機銃を6門装備しました。供与と国産を合わせて480機も整備されます。1955(昭和30)年に180機が供与され、三菱重工がライセンス生産を行ないました。
東京オリンピック(1964年)では、大空に美しい五輪を描きます。ブルー・エンゼルスの妙技でした。しかし、当時の外国人からは、そのクラシックな装備に驚かれたようです。それもそのはずでしょう。ソ連のMIG15戦闘機を圧倒した優秀な戦闘機でしたが、日進月歩の戦後の戦闘機の歴史の中では、とっくに古い世代に属していたのです。その美しい機体は、先日も横田基地でお目にかかりました。
F86Dセイバードッグは米空軍でも初めての全天候対応の単座戦闘機でした。機関銃もなく、24発のロケット弾を装備します。口径は70ミリのロケット弾マイティ・マウスが胴体下のポッドに収納されました。レーダー・システムとロケットの組み合わせは、その後のミサイル時代の先駆者になったのです。
わたしが初めて姿を見たのは小学生の時です。黒いレーダーポッドが機首にあり、セイバーの精悍な顔つきとは異なる力強い姿でした。亡父が持っていたアメリカの航空雑誌に載ったヒューズ社の広告です。実機を見たのは中学生の頃、札幌に住む叔父のところにコンベアというジェット旅客機で出かけた時でした。1960年代の半ばのことでした。千歳空港で、その雄姿を見ることができました。
生産機数は2506機で、1958年1月に米国から110機が供与されます。この機体で編成された4個飛行隊は1968(昭和43)年まで防空任務に就いていました。60年近い年を越えての再会でした。
▼上陸する敵への火力
稚内南方の日本海側にある抜海台地は海岸段丘です。渚から数百メートルの平野を過ぎると、比高12メートルの急な崖になります。ビルでいえば4階の屋上にあたるぐらいでしょうか。その台上には2本の道が通じています。台地の上には幅が2キロ、奥行き2キロの開拓地があります。樹木はなく、クマザサが生えています。宗谷本線の線路が走り無人駅がありました。
アメリカ軍では海兵隊といい、ソ連軍では海軍歩兵といいます。水陸両用戦車であるPT76に乗って上陸するでしょう。続いてT62戦車が揚がってきます。迎え撃つのは74式戦車、重MAT、カールグスタフ84ミリ無反動砲、106ミリ無反動砲、81ミリ迫撃砲などです。
この頃に配備されていたのは重MATでした。ミサイル・アンチ・タンクです。制式名称は79式対舟艇対戦車誘導弾といいます。射程4キロの短距離SSMとなるでしょう。川崎重工が約10年をかけて開発しました。第1世代である64式MATの後継になり、有線誘導ではあるものの、半自動誘導といわれるものです。64式は目視誘導で命中するまで操縦する必要がありました。
発射されるとブースターで加速し、弾体からフィンが出ます。秒速200メートルで飛びました。尾部にはキセノンランプが灯りIRビームを出します。それを照準機のセンサーが感知し、照準線に合致するようワイヤーを通じて信号を送りコントロールしました。対舟艇攻撃には近接信管も併用し、対人、対戦車攻撃も可能でした。
PT76は水陸両用偵察戦車ともいわれました。車体、砲塔ともに熔接製で、装甲も比較的薄いとされましたが、水上航走能力に優れていたようです。エンジンでポンプを駆動し、車体下部の穴から吸い込んだ水に圧力をかけて、後部の2つのノズルから噴出させるハイドロジェットシステムを採用していました。乗員は3名、備砲は76ミリ、7.62ミリ機銃、戦闘重量13トン、路上最大速度は毎時40キロです。
また、わが74式戦車が正面に立ちふさがる相手はT62戦車です。1963(昭和38)年に西側諸国に初めて存在を知られました。その要目ですが、全高2.28メートル(2.25前同、さらに低姿勢を取ると2.05同)、全長9.40メートル(車体長6.7前同)、全幅3.37メートル(3.18前同)乗員4名、戦闘重量38トン(38トン)、初速1600メートル/秒の115ミリ滑腔砲(英国製ビッカースL7A1・105ミリ施条砲・初速1478メートル/秒)、7.62ミリ機銃(同)、最大速度50キロ/時(53キロ同)、行動距離350キロ(300キロ)でした。( )内の数字は74式戦車のものです。
こうしてみると、T62と74式戦車はそれほど大きな差があるわけではないことが分かります。ただ、射撃統制システム(FCS)はレーザー測遠機と弾道コンピューターを組み込んでありました。
▼第3連隊戦闘団の戦い
第3普通科連隊は名寄に駐屯する部隊です。手塩海岸や稚内が警備隊区でした。3普連を中心した各職種部隊を集めたのが第3連隊戦闘団です。抜海、浜勇知、勇知、開源に各1個普通科中隊を配備します。抜海海岸と稚内方面からの2正面侵攻に応じる構えです。
その戦闘要領は陣地の固守ではなく、遅滞(ちたい)戦闘による敵勢力の漸減(ぜんげん)作戦が基本になります。地域への侵攻は許しますが、敵戦力を減殺して我の損害を最小限にして、味方部隊が来援する時間を稼ごうということです。
第2戦車大隊長は、抜海の第1普通科中隊に戦車第2小隊(4輌)、浜勇知の第2普通科中隊に同1小隊(4輌)を配属し、中隊主力は第3小隊とともに開源付近の戦闘団本部近くに位置していました。第一線部隊が抜海、浜勇知から後退してきたときに、勇知付近の陣地でこれらの部隊を収容する任務をもっています。
抜海陣地は台地上にあり、いわゆる反斜面陣地です。こうした地形の陣地構築は防禦側にとって難しいことになります。上陸する敵側から見れば台地の端は見上げる形になり、そこに何があるか実態が分かりにくいのです。防禦側からは直射火力を重視する、つまり海岸に迫る上陸用舟艇や水陸両用戦車を狙い撃ちにするには、台地の端に射撃陣地が必要になります。
しかし、侵攻部隊を掩護する敵艦砲射撃の目標にならないためには、あまり台地の端には陣地を築けません。そこで少し後方に退がって、敵が台端に顔を出した瞬間に不意急襲火力を浴びせるようにします。ただし、こうした場合でも敵が海岸に達着時の弱点を叩くことが必要であることは言うまでもありません。
▼ロシア海軍の艦砲射撃
想定される艦砲射撃を行なうのは、ソ連海軍の「スヴェルドロフ」級巡洋艦です。1万6000トンの排水量をもち、152ミリ3連装砲塔4基、100ミリ連装砲塔6基、37ミリ砲32門をもっていました。コトリン級駆逐艦(2850トン)も130ミリ砲連装砲塔2基、57ミリ砲4門を装備します。
もし、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻が艦砲射撃を行なうと合計56門のカノン、小口径ながら速射性のある火砲80門もの砲撃を受けることになります。そこで陣地を台端から500メートル下げることにしました。さらに戦車の陣地を工夫し、重MATや107ミリ重迫撃砲を投入し、ソ連軍が上陸するまでに少しでもPT76を減らしたいと計画します。
次回は陣地配備と、想定される戦いを紹介します。
(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。