陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(73)自衛隊砲兵史(19) 着上陸侵攻する敵部隊を撃破せよ
□当時「有事法制」は検討中
いよいよ木元陸将補のご著書『道北戦争1979』では、ソ連軍の航空優勢の中で稚内への着上陸侵攻が始まります。ここで興味深いのが、当時の「有事法制」です。木元氏は当時、防衛庁では3つの分類に従って、有事への対応を研究していたとされています。
まず、第1分類です。防衛庁所管の法令については、防衛庁設置法、自衛隊法のいわゆる防衛2法と防衛庁職員給与法がありました。有事においての物資の接収、土地の使用、有事に出動した隊員等への給与について特別な処置を必要とする問題です。
いまも話題になるのは、防禦陣地を地権者に断りなく造っていいのか、あるいはガソリンスタンドにある燃料等を部隊が使えるのか等ということでしょう。自衛隊基地の建設に反対する方々が主張の根拠の1つにするのが財産権の問題です。いわく「クニが市民の財産を勝手に押収していいのか」ということになりましょう。
もう一つは「特別職国家公務員」として、いわゆる「文官」とされる省庁の書記官、事務官、技官などと横並びの給与体系で決められている、自衛隊員の有事の処遇です。もとから高額ではない隊員の給与、それに有事で出動した際の危険手当などはどうでしょう。何より殉職や戦死といった公務死や、負傷された時の具体的給与などはどうするかでした。
大東亜戦争の敗北で解体される前の「戦う軍隊」だった日本帝国軍隊には、戦うことと、その結果についての諸法令が用意されていました。
よく政治家の方々、有識者の中には「戦前は教育がきちんとしていたから帝国軍隊は強かった」とおっしゃる方がいます。自衛官は志願でなったのだからしっかり戦えという方もおられますが、その裏付けの国家・国民からの具体的な配慮や処遇について、どれだけご存知なのかわたしは不思議に思うのです。
次に、第2分類、他省庁所管の法令です。部隊の移動や資材の輸送等に関する法令、通信連絡に関する法令、火薬類の取り扱いに関する法令、自衛隊が有事に行動することに関する法令がたいへん多くあります。「昔の軍隊」と比べれば、「軍隊ではない自衛隊」であることから様々な規制がかかっています。
道路法、森林法、海岸法、河川法、自然公園法、建築基準法、火薬類取締法、医療法、墓地・埋葬等に関する法律、会計法などなど、所管するどこの官庁でも、考えたことも無かった・・・と言っては言い過ぎでしょうがいかがでしょう。
最後に第3分類です。政府全体で取り組むべき法令になります。有事になって戦場となる地域住民の保護、避難誘導について、また「国際人道法(ジュネーブ4条約)」の国内法制化です。戦時ではありませんが、わたしたちは阪神淡路、東日本の大震災を経験しました。近頃では能登でも同じですが、救援物資はどこへ、どのように運ぶのか、それらの集積の方法や場所はあるか、避難する住民の方々の保護は十分できるかなどが一気に問題化します。
それに加えて、外国軍隊の攻撃、占領があったらどうなるか。捕虜にはどうしたらなれるのか、死傷者が出たらどのように対応するのか。憲法9条を固守し、自衛戦闘だけを想定、国内に敵を上陸させて戦うというのは、戦場に一般住民、国民がいるということです。もちろん、そうなるまでに政府が、国会議員が敵と話し合って、絶対にそんな事態が起きないようにすると言うならいいのですが。
▼情報部隊と遊撃部隊
第25連隊戦闘団は沿岸部に情報部隊を配置しました。連隊本部管理中隊の情報小隊、第2戦車大隊の偵察小隊です。戦闘団長は監視哨を設けます。上陸予想地点や、枝幸港、上陸後の内陸侵攻が監視できる場所です。いずれも監視ができ、生存率も高い地点が選ばれます。
枝幸港を監視する連隊情報小隊の任務は、次の通りです。幌別海岸に上陸して内陸に進もうとする敵部隊、枝幸港を利用する敵艦船の動向、とくに兵器・弾薬・燃料等の揚陸状況、これらの補給品を陸上輸送する車輌等の行動を監視し、遊撃部隊に通報します。
2戦大(第2戦車大隊の略称)偵察小隊は、浜頓別正面に上陸し、中頓別方向に移動する敵を監視し、前地(着上陸侵攻の正面で海岸から内地にある地域)の戦闘を展開する予定の戦車大隊に獲得した情報を提供します。上陸した敵戦車、装甲車、歩兵、対戦車火器の数量や動向などです。
特科(砲兵)部隊の前進観測班(FO)も監視哨に派遣されます。特科部隊は前線の後方から敵の上陸部隊に15榴×10門、10榴×20門を浴びせる計画です。15榴とは155ミリ榴弾砲、10榴とは105ミリ同をいいます。75式155ミリ自走榴弾砲の最大射程はおよそ19キロ、105ミリ榴弾砲のそれは約14キロです。
遊撃部隊とは25連隊のレンジャー25名で編成された5組の部隊でした。レンジャーは一般隊員から志願、選抜されて厳しい訓練を終えてバッジを与えられた不屈の戦士です。いまも制服の、あるいは戦闘服の左胸にレンジャー・マーク(月桂冠)を着けています。「おっ、レンジャーですね」と声をかけると、皆さん、にっこり誇らしげに笑ってくれることでしょう。
このときは補給部隊の襲撃を主な任務としました。枝幸港から物資を陸揚げし、中頓別方面に車輌で輸送するソ連軍部隊、その車列を襲います。とくに目梨別から斜内では山が海岸に迫り、人家もないという攻撃には最適な地形です。
このレンジャー隊には84ミリ無反動砲と89ミリ・ロケットランチャーが装備されています。84ミリ無反動砲はカール・グスタフともいわれ、スウェーデンが1949年に開発したNATO(北大西洋条約機構)軍でも採用されていた信頼性の高い対戦車火器です。1978年、つまり木元氏の作品の前年に導入されたばかりの新兵器でした。
全長は1130ミリしかなく、重量も16.1キロと1人で運べ、初速は260メートル/秒、有効射程は700メートル、弾の重量は2.4キロ、弾頭は0.5キロ、700メートルまでの飛翔時間は約2.2秒です。その威力は成形炸薬対戦車榴弾の開発でさらに大きくなりました。電気信管のおかげで命中角度が80°でも起爆し、命中角度が0°つまり垂直に命中すると、厚さ300ミリの鋼板を貫通します。当時のソ連軍主力戦車T62も撃破できました。また、89ミリのロケットランチャーは、通称バズーカ、朝鮮戦争でT34に苦杯をなめて開発されて、200メートルの射距離で110ミリの侵徹力があります。
レンジャーたちは3週間程度自活できる糧食と、弾薬、通信器材のバッテリーなどを身につけて出発しました。連隊戦闘団の後端は天北峠と咲来峠の2カ所に絞られます。この2つの峠は決して峻嶮な地形ではありません。なだらかな起伏の頂点です。しかし、この峠を奪取されると、稚内と天塩方面で戦う第2師団主力の後方補給線を脅かされます。だから戦闘団の最終確保地域です。
▼2つの峠の配置
もし、戦闘団が前地と主陣地の戦闘で破れた場合、残存戦力はすべてがこの両峠に集結し、まさに最後の一兵に至るまで戦闘を継続します。そこで、この峠には戦闘の初期から段列を配置して防衛陣地を構築しました。
段列とは、作戦時に臨時に編成される兵站部隊のことを言います。普通科連隊や戦車大隊には本部管理中隊があり、そこには輸送、補給、整備、衛生の各小隊があります。それらにさらに配属された後方支援関係部隊で段列は構成されました。
25連隊の段列は、天北峠を背にして、小頓別の集落を抱え込むように半径1キロの円陣を構築します。この円陣の中央には国道275号線が貫通していました。62式機関銃、64式小銃、バズーカなどを装備しています。前地の戦闘で損傷を受けた戦車や自走砲、APC(装甲兵員輸送車)などを回収して、トーチカとして活用する計画でした。
2戦大の段列は、本幌別から咲来峠に至る道路に沿って長径3キロにわたって部隊を縦深に置きます。装備火器は25連隊と変わりありませんが、固有の戦車回収車(リカバリーと通称し、戦車の車体にレッカーなどを積んであります)やAPCをもつので、これらも戦力として活用できます。
浜頓別から天北峠まで50キロ、枝幸港から咲来峠まで40キロです。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。