陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(72)自衛隊砲兵史(18) ソ連軍侵攻す
□ご挨拶
東北の方々のご災厄に心からお見舞い申し上げます。新幹線も復旧、運転再開までかなりの日数がかかるようです。道路も、橋も、インフラの損壊が大きいようで、この夏のお暮らしを思うと、心が痛みます。どうか御身大切に。
▼第2師団A号計画
第2師団(旭川)はオホーツク海正面に上陸侵攻するソ連地上軍の規模を1ないし2個自動車化狙撃連隊を想定していました。このソ連軍独特の部隊の特徴を見ると、防空戦闘能力の高さが挙げられます。
連隊には自走対空砲ZSU-23-4とSA-9をもつ防空中隊があり、連隊本部にSA-7個人携帯SAM1個分隊を持っていました。ZSU-23-4は2輌のペアで運用して、連隊の先導大隊、または第1梯隊の防護を行ないます。SA-9は連隊の第1梯隊と第2梯隊の間に位置し、連隊指揮所、連隊固有の砲兵大隊と隷属部隊と配属部隊の直接防護を任務としました。
ZSU-23-4はクローラー付きのPT76戦車の上に23ミリ対空機関砲4連装をレーダーと共に並行装備しています。発射速度は1門あたり200発/分といわれました。低空目標には威力を発揮します。SA-9は車載式の近距離地対空ミサイルで、3輌の装甲兵員輸送車の車体に4連装発射機を載せて、レーダー車、指揮車とともに1個小隊を構成しました。SA-7は携帯式で1966年頃から配備を始めます。赤外線ホーミングで目標を追尾し、射程は800~3700メートル、385メートル/秒で飛びました。
防空分隊はふつう中隊長が直に掌握し、無線が通じなくても音声や視号通信で射撃指揮をします。そのため中隊長の所在位置からあまり離れません。当時の陸自連隊戦闘団とは比較にならないくらいの強力な防空戦力でした。
この後、陸自は個人携帯対空ミサイル、スティンガーなどの導入、短射程のSAM(地対空ミサイル)、自走対空機関砲などの開発に努めます。しかし、1979年当時は、そのいずれもなかったのです。
▼防禦陣地等の設定
全般作戦計画はすでに出来あがっています。年度計画で、さまざまな想定に対応するのが軍隊の常識です。防禦陣地の細部まで出来あがっていました。海岸から防禦陣地までの戦闘要領(これを前地の戦闘という)も決まっています。ただし、問題はオホーツク海正面には市街地や民有地が多く、部隊の実配置、陣地構築等は「法的な裏付け」が必要です。
これを市町村役場などに交渉を任せることはできません。ひそかに地権者と接触して、状況を説明し、細部を漏らすことはできませんが、許可を得てから築城資材や器材を集積します。3週間の準備期間があれば戦闘団すべてを地下に潜らせることができるが・・・と木元氏は書かれています。
実際にできることはFRPを使った簡易掩体を構築することぐらいでした。FRPとは強化プラスチックの掩体カバーのことです。たとえば機関銃用掩体を掘削して、上部のFRPのカバーをかけて、その上部に土を1メートルあまり積み上げれば、相当な強度になるということでしょう。連隊戦闘団はこうした簡易だけど、かなり強力な防禦陣地を築けるほどのFRPを持っていました。
前地の戦闘のために、戦車や自走砲の直接配置はできません。予定位置を偵察し、戦闘要領を現地で確認して予行することは可能です。25連隊戦闘団は、74式戦車、74HSP、75HSPを天北峠西側(上音威子府~峠までの5キロ)と咲来峠南側5キロに推進して、前方展開がいつでも可能なような態勢を取りました。
▼地域住民のために
連隊戦闘団の作戦地域には4つの町がありました。浜頓別町、中頓別町、枝幸町、歌登町です。ここには多くの住民が住んでいます。被害を及ぼすわけには行きません。できることならソ連軍が上陸する前に住民を避難させるのが当然ですが、当時はそうした有事法制がまったくなく、自衛隊ができることはほとんどありませんでした。せいぜいが幹部がそれぞれの町役場を訪れて、事情を説明し、協力を求めることしかなかったのです。
枝幸町の役場近くには、当時は旭川地方連絡部枝幸地域事務所がありました。広報官3人がそこには詰めて、募集や退職した自衛官の再就職支援などを行ないます。木元氏の小説では、地域事務所長の陸曹長の案内で副連隊長が町役場を訪れました。
会議室に待っていたのは、町長、助役、収入役と枝幸警察署長、消防署長でした。すでに陸自の臨戦態勢のことは一般にも広く知られていました。戦車が鉄道で稚内方面に送られていること、資材や弾薬なども集積されていることなどです。副連隊長は、この場だけのオフレコですがと前置きして5人に話します。戦争になる可能性がかなり高いこと、それを決めるのはソ連政府であること、いますでに揚陸艦や貨物船の集結がほぼ終わったように見えること、このことから侵攻はかなり近いと判断させることでした。
次回はさらに息をのむ事態が展開します。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。