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荒木肇さんの最新刊 自衛隊警務隊逮捕術 …警務隊長は語る。「我々警務官は平素の暮らしの中で規律違反や、犯罪への対応をしているが、今やその平素が有事に近い。…相手にする犯罪者、犯行形態は多様である。そうした事態に立ち向かえる意欲と能力を持った人材がこれからますます必要になる」〈本文より〉 |
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ご挨拶
前回はいかがでしたか。自衛隊の草創期の貴重な姿の数々には驚くばかりです。今回は昭和33(1958)年のご紹介をします。
30年代はようやく戦後の混乱から立ち直った時代です。昭和30(1955)年には経済白書に「前進への道」という言葉が使われます。翌年には、先にもお話したように「もはや戦後ではない」という記述が現われました。
政治の世界を見ると、1955年には社会主義社会の建設をいう社会党の左派と右派が統一し、保守政党の自由党と民主党が保守合同し自由民主党(じみんとう)になりました。保守政権与党と、対抗する大きな野党、これ以後を55年体制というのも当然です。
さて、自衛隊はどのように進化していったのでしょうか。警察予備隊、保安隊、そして陸・海・空自衛隊と発展してきた自衛隊の姿が、この1958(昭和33)年の映像にしっかりつまっています。
誰を相手に、どんな装備をもち、どんな教育訓練をし、どんな組織を育てるか、それが明らかにされたのが1957(昭和32)年5月20日の「国防の基本方針」です。そして、防衛力(つまり戦力ですが)整備目標が立てられます。これが第1次防衛力整備計画、「いちじぼう」といわれたものでした。
昭和33年度から35年度までの3カ年計画です。当時は、アメリカ地上軍が次々と縮小・撤収し、陸上防衛力には大きな危機感がありました。また、海上や航空の防衛力についても、いちおうの体制を整えようとしていたのです。これを当時は「骨幹(こっかん)防衛力の創設」と言っています。
1次防の目標は、陸自隊員定数が18万人、予備自衛官1万5000人というものです。部隊規模の主力は6個管区隊(のちに師団)と4個混成団(ミニ師団)でした。海上自衛隊は米海軍から供与された艦艇から、国産のそれへと変貌をとげていきます。航空自衛隊もまた、朝鮮戦争で活躍したF86Fセイバージェット戦闘機の整備を進めました。あわせて映像の中にも出る全天候型対応のF86D型戦闘機を導入し、対空警戒システムも整備しようとしていることが観られます。それらはすべてこの計画にそったものでした。
https://www.youtube.com/watch?v=4Rxhy2zDSJs
天・人災と災害派遣
30年代(1955〜65年)は大きな災害が起きた時代です。この映像の1958年は6月に九州の阿蘇山が大爆発、観光客12人が死亡するといった事故もありました。また、8月には静岡県下田沖で全日本空輸(ANA)のダグラスDC3旅客機が墜落し、映像にもあるように自衛隊が出動しています。
天変地異といいますが、この年の夏は大干ばつが起きました。東京都の水がめの奥多摩にある小河内ダムが渇水して、都内に自衛隊が給水を行ないます。映像にも当時の夏の庶民の服装がよく映っているので興味深い。
また、九州では海上自衛隊の対潜水艦哨戒機P2Vネプチューンが雲の中にドライアイスを撒くために出動しました。雨雲を作るためです。また、日本海側の浜田市にも救援物資を運ぶために空自のC46コマンド輸送機が出動しました。
この年はアジア大会(アジア地域のオリンピック)が行なわれ、その聖火の輸送もネプチューンが行なっています。フィリピンのマニラから空輸しています。
ところが・・・、7月25日には台風11号が京浜地帯を襲います。豪雨のために中川の堤防が決壊し、江東(こうとう)地区が「あっと言う間に水が来た」と証言されるような洪水の被害です。自衛隊はただちに出動し、救援、復旧に努め、多くの感謝を受けました。「やっぱり兵隊さんがいなくちゃいけないね」と、近所のおばさんたちが話していたことを今も覚えています。
また、9月26日、これまた超大型の台風22号が静岡県伊豆半島に大被害をもたらします。死者・行方不明1189人を出しました。狩野川(かのがわ)台風と今も記憶されるもので、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)、長岡などを中心に救援活動を3自衛隊は献身的に行います。台風で1000人以上の人が亡くなる。社会資本が整備された現在からは想像もできないことでしょうが、60年ほど前の日本では、あっても不思議ではないことでした。
明るい話題では、8月に日清食品が初めてのインスタントラーメンである、「チキンラーメン」が発売されました。お湯を入れれば食べられるという画期的なものでした。即席(そくせき)という言葉が流行りました。
5月には富士重工(昔の中島飛行機)から軽乗用車(排気量360CC)スバル・セダンが発売され、値段は42万5000円でした。そして10月には、富士精密(のちのプリンス自動車、そして日産自動車と合併)から「グロリア」の開発が発表されます。これ以後、わが国にも本格的な自動車時代が訪れたとされる人もいます。
新造される海自の護衛艦
国産艦「なみ」の名前がついた対潜水艦戦闘に備えた護衛艦が公開され、映像にもその雄姿が紹介されています。艦番号105なので「うらなみ」です。この年の2月に神戸市の川崎重工で竣工しました。同型艦は「まきなみ・DD112」までの7隻です。初の国産護衛艦「はるかぜ」型の実績をもとに建造されました。
基準排水量は1700トン、蒸気タービン2基から3万5000馬力を発揮、速力は32ノット、76ミリ連装速射砲が3基(計6門)、533ミリ4連装魚雷発射管1基(対水上艦船用)、短魚雷落射機2基(対潜水艦ホーミング魚雷を撃つ)、Y砲(対潜水艦用砲弾発射機)2基、爆雷投下軌条2基というものです。対決するのは当時のソ連海軍潜水艦でした。
同時に「あめ」の名前がついた対水上戦闘用の護衛艦「ゆうだち」の進水の様子が観られます。これは重武装の対空護衛に重点を置いていて、強力な砲熕(ほうこう・火砲をいう)兵装が特徴です。3隻ありました。映像の「むらさめ」は艦番号DD107、この映像の翌年(34年)2月に三菱長崎造船所で竣工します。排水量は1800トン、127ミリ単装砲3基、76ミリ連装速射砲2基、短魚雷落射機2基、ヘッジホッグ1基(対潜水艦用爆雷投射機)、爆雷投下軌条1基ということから、対空戦闘を重視しています。
さて、これらの艦艇のDDなどというのは艦種記号です。Dはもちろん、デストロイヤー(駆逐艦)を指す略号になります。陸上自衛隊も軍隊という批判を避けるために、歩兵を普通科、砲兵を特科、戦車を特車などという奇妙な言い換えがありました。
同じように、駆逐艦は警備艦という予算対策の名称を発明し、さらには護衛艦という奇妙な言い方がされて70年にもなりました。ところが、海外に対しては堂々とDD(駆逐艦の中でも攻撃力が高い戦闘艦)やDE(エスコート・護衛駆逐艦)といいます。
面白いのはマスコミ人や政治活動の好きな学者さんには、海上自衛隊が海外で「ジャパン・ネービー(日本海軍)」ということが許せないという人がいます。ジブチの海賊対処の哨戒機が「ディス イズ ジャパン ネービー」ということも問題にしていました。
しかし、現場の隊員にしてみれば、「ジャパン マリタイム セルフ ディフェンス フォースって言ったって、海賊には分かりません」という。どちらがまともな感覚か簡単に分かる理屈です。
空自のセイバードック
愛知県小牧基地の第3航空団の映像があります。鼻先の黒いレーダードームに特徴があるF86Dセイバードックの力強い姿が観られました。
1955(昭和30)年から空自はF86Fセイバー戦闘機を供与されました。180機が引き渡され、国内でも新三菱重工(現在は三菱重工)で300機がライセンス生産。翌年8月には初飛行に成功し、浜松、築城両基地で飛行隊を編成します。最後を迎えたのは1979(昭和54)年のことでした。
F86Dセイバードックはアメリカ空軍でも戦後初の全天候能力をもつ要撃戦闘機です。ただし、F86とはいうものの、軽快な対戦闘機戦闘を得意とするFセイバーと異なって、運用重量では5トン対6トン、エンジン推力も2700キログラムに対してアフターバーナー付きで3700キログラムと力強いものでした。
武装は機関砲の装備はなく、胴体下から2.75インチ(約70ミリ)のロケット弾24発が装填されたポッドを降ろすものです。翼下にも対空ミサイルを2発抱えられますが、時代が機関砲からロケット弾、ミサイルに移行した時期でした。ただし搭載された火器管制装置は優秀だったといわれます。
この年から122機が順次に供与されますが、いわゆる在日米軍からの中古機であり、複雑な電子装備の整備も大変だったようです。また、国産化もしておらず、部品供給もうまくいかなかったとも言われています。そこで後継であるF104が採用されると、運用期間が10年と短かったのです。愛知県小牧基地に3個飛行隊、北海道千歳基地に2個飛行隊がありました。
レーダーサイトの移管も始まります。ナレーションの中にしばしば「自主防衛」という言葉が使われるのもこの時期の特徴です。
陸自の北方機動大演習と広報
10月14日には、北海道で人員2万名、車輌4000にものぼる機動大演習が行なわれます。北海道の分水嶺である大雪山を踏破し、戦車、火砲などの大勢力が演習を展開しました。空挺団の降下、戦車群の射撃、普通科部隊の火力戦闘などが観られます。
国産の火砲も小火器もなく、空挺団のOBが教えて下さった3分割した小銃などをもって落下傘兵が降ります。105ミリ榴弾砲、155ミリ同の射撃シーンもあり、何より米式装備の7.62ミリのM1919A6(水冷機関銃)、同A4(空冷軽機関銃)などの射撃シーンが壮観です。M4特車群の横一線に並んだ射撃もマニア必見。
最後に、婦人自衛官(ナース・看護官)、少年工科学校(現高等工科学校)の受験風景を観ることができます。あわせて「平和のための防衛博覧会」などの努力も観られます。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)2月10日配信)
著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊警務隊逮捕術』((並木書房)がある。
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