自衛隊警務官(32)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(32) 日露戦争での捕虜の発生

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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ご挨拶

 

 隣の東京都では、依然としてコロナの流行が終わりません。むしろ数字だけ見ると、かえって連日200人超ということから、ずいぶん激しくなっているようです。ただし、新宿の盛り場や、池袋の繁華街、若い人が集まる水商売系統の場所での伝染という経路がはっきり分かるものが多いように見えます。

 

 

 油断はできませんが、通勤やふつうの行動では、あまり危険はないようです。自分たちが気をつけて、防衛措置を取るしかありません。それにしても、飲食業界の厳しさはまだまだ続くようです。わたしもひそやかに、少しでもお助けになるように出かけています。

 

 

金州丸事件

 

 日露戦争(1904〜5年)でも捕虜が生まれた。「戦役統計」から大江志乃夫氏が検索した数字によれば2088人にのぼった。この中には、旅順要塞陥落の後に、わが軍の手に戻った人たち95人は含まれていない。95人の内訳は陸軍将校・下士卒69人、海軍准士官・下士卒16人、民間人10人だった。海軍軍人は旅順口閉塞隊員である。民間人の10人は、民間通信船繁栄丸(1904年3月26日撃沈された)の乗員8人と、朝日新聞社員と商人各1人となっている。

 

 

 1904年4月には海軍運送船金州丸(きんしゅうまる)の撃沈事件が起きた。ウラジオストクから出撃した巡洋艦戦隊の攻撃によるものだった。ロシア艦から停船を命じられた金州丸。非武装の商船でしかない。監督官溝口海軍少佐は、抵抗を諦めてロシア艦に向かい、そこで抑留されてしまう。さらに船長、主計長、大本営から派遣されて便乗していた桜井陸軍大尉も抑留されてしまった。

 

 この幹部たちの交渉によって、非戦闘員の退船と抑留が決まった。そこで船員全員がカッターに乗ってロシア艦に出向き抑留された。金州丸に残されたのは、乗っていた歩兵第37聯隊第9中隊である。朝鮮元山守備隊に属していたこの歩兵中隊は、中隊長(椎名大尉)以下127人だった。そこへ、ロシア艦からロシア海軍将校以下が船長をともなってやってきた。順序からいって、陸軍将兵の武装解除である。

 

 ところが中隊の将兵は素直にこれに従わなかった。中隊長は、これを制止したが、中尉2人、少尉1人、特務曹長(准士官・昭和時代の准尉)を連れてロシア艦に向かってしまった。その後、交渉時間の長さにいらだったロシア艦により、魚雷が発射され、金州丸は沈み、76人が亡くなり、45人の下士卒だけがボートで脱出できた。

 

 この事件は後味が悪い物になった。中隊長以下はロシアの収容所で生きながらえたのである。

 

 読者は、日清戦争(1894〜5年)の、日本海軍による英国船籍輸送船の撃沈を思い出すだろう。清国にチャーターされた英国商船は清国陸軍兵を満載し、わが巡洋艦浪速(なにわ・艦長東郷平八郎大佐)に停船を命じられた。船長の英国人は降伏しようとするが、清国将兵は素直に降伏に応じようとはしなかった。東郷艦長は船員に退去をうながし、時間を与えた後に、水雷と砲撃で「高陞号(こうしょうごう)」を撃沈した。乗っていた清国将兵は溺死するしかなかった。

 

戦争末期の捕虜

 

 1905(明治38)年3月10日といえば、戦後、陸軍記念日とされた奉天会戦の日のことである。日本陸軍は大攻勢をかけた。奉天城北にある北陵(ほくりょう)に第7師団は夜襲をかける。指揮官は歩兵第28聯隊長村上大佐だった。真っ暗な闇の中で攻撃隊は森林の中に入り、進路を失ってしまう。小さなグループになってしまった部隊は、ロシア軍と各所で遭遇し、混戦となった。

 

 紛戦、混戦の中で村上大佐の周囲には数名の伝令がいるだけだった。ロシア兵に包囲された大佐は重傷を負って、ついに捕えられてしまった。聯隊副官も、聯隊旗手もはぐれてしまうような不統制ぶりを見せた結果ではあった。

 

 5月17日には、有名なミシチェンコ騎兵団の活躍によって、日本軍は大きな損害を受けた。騎兵団の与えられた任務は、その機動力を生かして、日本軍の左側背を脅かし、兵站線を破壊することだった。5500騎、砲6門、機関銃2挺が騎兵団の総兵力である。衛生部隊だけが車輌をもち、軽装備、機動性を高めた編成だった。

 

 日本軍左翼の第7師団の左を迂回して、日本軍小部隊を撃破、騎兵1個小隊に快勝し、輜重物資を火にかけた。翌日の18日には、第7師団の後方にあった第2野戦病院を襲った。このとき、ロシア軍に捕えられた捕虜は39人にのぼった。

 

 日本政府は、野戦病院に対する攻撃は赤十字条約違反として抗議を行なった。ロシア政府の回答は「衛生任務ニ属スル記号ヲ掲ゲズ、襲撃ニ応ジ射撃セリ」というものだった。公刊『日露戦史』の記述によると、折から日本軍騎兵1個中隊が退却してきて、野戦病院は撤退準備にかかり、その進行中に捕虜になったものと考えられる。

 

 大江氏も指摘するように、赤十字標識が見にくく、しかも戦意のある衛生部員以外の者による射撃もあったかもしれない。野戦病院には衛生部員(交戦権者ではあるが、非戦闘員)の他にも、輜重兵科(これは戦闘員)の下士・兵卒、輜重輸卒の配属があり、経理部員もいた。また、非戦闘員である衛生部員にも自衛用の戦闘は許されるので、刀剣だけでなく拳銃や騎兵銃で射撃した者もいたかも知れない。

 

 19日は迎撃に出た日本軍の歩兵・砲兵と小戦闘を交え、20日には後備歩兵第49聯隊に襲いかかった。後備歩兵聯隊は、後備歩兵旅団の隷下に3個あった。現役の歩兵聯隊の場合は2個で1個歩兵旅団を構成する。これに比べて、後備歩兵聯隊は召集された予備役兵、後備役兵の比率が高く、戦力的には現役聯隊と比べて劣るものとされていた。後備歩兵聯隊の軍旗の総(ふさ)は赤く、常備聯隊のそれは紫だった。

 

 襲われたのは後備第49歩兵聯隊第1大隊、聯隊本部と第3大隊本部と1個中隊、それに機関銃4挺だった。午前9時半ころから、1個小隊が欠けた第6中隊と機関銃2挺をもった小部落を攻撃した。日本軍は潰乱し、中隊長と少尉が負傷し、機関銃2挺も奪われたという。ロシア兵は負傷した捕虜を連れてゆくことをせず、野戦病院を襲った時に捕えた日本軍軍医をそこに置いて治療に当たらせた。

 

 さらに11時ころ、別の1個小隊を襲ってこれも潰滅させた。負傷した小隊長以下が捕虜になったが、重傷の1人の兵卒と衛生部員1人を置いてロシア軍は去っていった。第6中隊の損害は合計戦死72人、負傷者48人、捕虜は48人だった。

 

 この騎兵団はさらに活躍する。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(令和二年(2020年)7月22日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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