陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(87) 自衛隊砲兵史(32) 存在しない戦時内閣

□「もしトラ」ではなく「またトラ」

 合衆国大統領を合衆国民が民主的選挙で選びました。トランプ氏はヒトラーのような独裁者だの、非民主的な政策をとるだのといった、「識者」の断言や「大手マスコミ」の論調があり、接戦だともいわれていましたが、とんでもない。民主党のハリスさんは完敗でした。

 白人だけでなく、カラードやヒスパニックにも、トランプ氏は支持を受けました。こうしてみると、日米共に「識者」とか「大手マスコミ」がいかに信用できないものかということが分かったのです。

 テレビに登場するコメンテーター、識者、専門家はいかに偏っているかでしょう。また、それを登場させるマスコミの人々はどういう人なのでしょうか。

▼危機管理機構不在の有事

今週も元自衛官・木元寛明氏の著作『道北戦争1979』をもとに話を進めます。

 日本政府には戦時内閣のような非常時の危機管理機構がありません。つまり、一貫した戦争指導の方針すら立てられません。この時も、ソ連から偏った情報に踊らされた外務大臣から首相に停戦案が報告されます。それに加えて海外からソ連寄りの情報が流されました。国内のマスコミもそれに同調します。民間人に被害が出ているから、とにかく話し合いで戦闘を止めるべきだという主張がはびこり始めます。15日の午前零時を期して戦闘は停止されるといったことが既成事実のように受け止められて行きました。

 英国では「戦時内閣」は限られた閣僚と首相だけで構成されます。会議は連日開かれて、法律関係の助言には法務総裁があたり、軍事助言者は参謀総長です。会議では、外交、経済、軍事の各分野間の調整を行ない、作戦実施への明確なガイド・ラインが設定されます。それが現場の司令官へ下されるものです。英国は非常時対処計画を平時から準備しています。それは毎年、訓練され、不断に改訂されていくものです。

 いまも話題になるのが「危機管理法案」であり、それに多くの野党勢力が反対しています。どう考えても国民を守るには必要な計画であり、法案を作成するのは国会議員の義務ではないかと思いますが、ほとんどの「識者」も「マスコミ」も反対しています。

▼停戦協定受諾か?

 

さて、1979年のことに戻ります。内閣への情報の一元化もされません。外務省は外交ルートを通じて、防衛庁は米軍から、内閣情報調査室はアメリカの情報機関から情報を手に入れ、それぞれが縦割り組織なので、戦争が起きても急には一本化できないのです。内閣官房も各省庁からの寄り合いなので、戦時の参謀本部には成り得ません。

 戦闘区域は北海道なので、作戦司令官は陸自の北方総監です。法律上は首相から総監という命令系統はありますが、統合参謀本部のような軍事的補佐機関がありません。当時の統合幕僚会議というのは、あくまでも会議でしかなく、アメリカの統合参謀本部とは全く違うものです。

 アメリカの統幕議長は、大統領の命令を受けて、軍のトップとして陸・海・空軍・海兵隊といった4軍への指揮命令権をもっています。対して、わが国の統幕議長は部隊の運用などに関する権限も指揮権もありません。

 停戦交渉は、現地の軍事情勢を基礎として、政府と軍が一体となって国益を最大限に追求するように検討されるべきものです。それが政府には戦争指導の方針がなく、そこで現地軍が独自の判断で動いているのが、この「道北戦争」の実態でした。「戦争は起きないものだ」という虚構の中でのシビリアン・コントロールが、戦争という現実の中で試されているというのが木元将補の指摘です。

▼閣議の一致という現実

 さて、政府の意思決定は閣議における全閣僚の賛成が慣例となっています。閣内不一致というのは、まともな事態ではないのです。停戦合意を行なうには、閣議を召集し、停戦の議案を上程し、討議して全閣僚の意見の一致が必要となります。

 13日の午後のことです。首相は旭川の北方総監に電話を入れました。首相は昨夜からの経緯を説明し、「停戦協定に同意するか」を総監に質します。総監は「停戦協定そのものが理解できない」と答えました。

 首相はさらに言葉を重ねます。「もうこれ以上、犠牲者を出したくないから戦争を止めようという提案があり、わたしもそう思う」と言うのです。それどころか、占領地域は返還するそうだと、すこぶるお人よしの考えを述べてしまいます。返還には条件が付くだろうと言う総監。「たとえ条件があっても、戦争を止めるほうがいい」とまで総理は言います。

 非常にリアリティを感じる部分です。戦争は悪だ、戦争をせずに済むなら降伏してもいい、話し合いで互いの条件を出し合って、とにかく戦争はしないのが正しいことだという「正論」がいまも国民や政治家の中から、マスコミや識者の発言から聞かれます。

 次回はいよいよ国家の尊厳とは何か・・・という議論が始まります。

(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。