輜重兵について

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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在来馬の大きさの話

 

 輜重(しちょう)の「輜」とは覆いのある、幌のある車のことをいった。輜で重量物を運ぶので輜重と名づけられた。建軍当初は、戦国時代の小荷駄隊の連想もあり、歩兵と騎兵が華々しい戦闘兵科だったから人気がある兵科ではなかった。戦国時代の小荷駄の存在も一般には知られておらず、詳しいことは分からない。現地で集めた人足や馬方を指揮・監督して輸送することが仕事であり、近代軍隊としての編制も規模は小さなものだった。

 

 始まりは各鎮台におかれた輜重隊である。平時では60名、戦時になってようやく80名になる。6個の鎮台にそれぞれ1個隊ずつ置く計画だった。全軍で3万2000人弱、その中で360名だから割合でいえば1%くらい、少ないといえば確かに少ない。しかし、限られた予算の中で、戦える近代陸軍を造ろうとした姿勢を評価したい。欧州風の陸軍制度を学び、戦闘兵科の一つをよくも揃えたということができる。

 

 この頃の輸送手段は馬に負わせることより人の背が主だった。駄馬が荷物を載せて歩いた(これを駄載という)が、在来の日本馬はたいへん小さかった。もともとわが国の馬の体高(足先から肩・背まで)
は低いもので、4尺(およそ121センチメートル)を「小馬」とし、それを成馬の基準にしたものだった。4尺5寸(136センチメートル)を「中馬」としたのが室町時代。戦国時代になると、さすがに4尺8寸〜9寸
(145〜148センチメートル)という馬が現われた。加藤清正の愛馬「帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)」などの5尺を超す馬も使われるようになった。当時、南蛮人の宣教師が秀吉に贈った5尺2分(152センチ)のアラビア種の馬があったことが記録にある。

 

 ところが、泰平が続く江戸時代になると馬の体高は伸びなくなってくる。大きな馬は好まれなくなった。外観の美しさばかりを追求するから、軍用の実力を備えなくなってしまった。馬が前脚を「足掻(あが)かせる」と格好がいいとなれば、推進力の元となる後躯(後ろ脚)の筋力をつけることはおろそかにされた。だから、幕末の馬は軍用であるはずの大名家の馬でさえ、後躯の筋肉は貧弱で、人を乗せることしかできない小型の馬ばかりだった。

 

 陸軍の建設当初、担当官たちを悩ませたのは強い軍馬を揃えられなかったことである。西欧では野砲を曳くのは馬であった。それを輓曵(ばんえい)といい、それに使われる馬を輓馬(ばんば)といった。ナポレオンは砲兵隊の機動力を誇った。それはフランスの軍馬の優秀性を物語る。ナポレオンが没落するきっかけになったワーテルローの戦い(1815年)では前夜来の嵐のおかげで、さすがの砲兵隊も道が泥海となって野砲隊が計画通り進めなかったことも敗因の一つとされる。

 

 幕末には幕府軍も新政府軍も四斤山砲や野砲を使ったが、ほとんどが人力で運んでいたらしい。薩摩藩はよく大型の臼砲を使ったが、戊辰戦争の戦記には分解して人力で搬送していたことが書いてある。理由は馬の入手困難ももちろん、牽引用の馬具もなかったのだから当然だっただろう。

 

 初期の輜重隊では、馬の積載量も27貫(101.25キログラム)が基準とされた。江戸時代の道中では20貫目(75キロ)を標準として、加えて荷の持ち主が乗っていくことを乗掛(のりかけ)といった。おそらく人の体重は10貫〜15貫くらいだから、当時の馬の限界だっただろう。ゆったり歩くから、それですんだに違いない。

 

 対して、人は7貫(26.25キロ)を背負うとされた。当時のわが国の道路事情はひどかったので、道幅も馬車どころか馬どうしがすれ違うのも難しかったところが多い。橋も同じく整備がされていなかった。大きな河川は浅瀬を選んで歩いて渡る。あるいは小川なら飛び石をつたって流れを越すようなことがほとんどだった。

 

 そうなると、経路によっては人の方が効率的であり、馬はあまりあてにはできなかったのだろう。それに日本の馬は蹄鉄(ていてつ)を打たれることがなかった。だから坂道や泥だらけの道では踏ん張る力も弱かった。加えて牡馬(ぼば)を去勢する習慣もなかったから、扱いにくいことこの上ない。噛みつく、蹴る、暴れる、奔走する。北清事変(1900=明治33年)で列国とならんで出兵した時、『日本軍は馬のような猛獣を使っている』と外国新聞の記者に報道されたことでわが国の軍馬の資質劣等ぶりは有名になった。

 

 ともあれ、日本陸軍の輜重部隊が大きな力を発揮させられたのは1877(明治10)年の西南戦争のことだった。陸軍始まって以来の旅団が編成された。鎮台が各所に駐屯している軍隊なら、旅団は移動する軍隊である。各鎮台から選抜されて旅団は編成された。このとき各旅団司令部に「会計部」が置かれることになった。この長官である司契が一般から募集して、高額な賃金で運搬人を雇いあげた。それで編成したのが「臨時輸送隊」である。

 

 ところが、これが大変な問題を起こした。まず戦費総額4156万円の半分以上がこの人夫の給与に消えてしまった。それに民間人だから統制に服さず、計画通りに行動しなかったばかりか、当然のことだが西郷軍に襲撃されると、荷物を放り出して逃げてしまった。

 

 西南戦争は多くの教訓を産んだ。戦時動員のこと、物資集積や配分、通信、兵器、戦術などこれからの課題が明らかになった経験になった。なかでも弾薬・糧食・医薬品、その他の物資運搬についても大きな学びの場であったことがいえる。

 

 軍隊で物資の運搬にあたる兵が必要だということから輜重輸卒(ゆそつ)という軍人が徴兵検査で指定されるようになった。ただし、戦闘を行なう輜重兵とは違う。駄馬の世話をし、荷物を馬の背に載せたり、おろしたり、歩くときには馬のくつわを取って牽くというのが主な仕事だった。もちろん、馬がいない時には、自分の背で運んだ。身体は頑丈だが、一般兵になるには背が小さいなどという人が選ばれた。

 

 その数はたいへんなものである。1912(明治45)年度の数字がある。この年の現役兵は全兵科で10万3742人、うち歩兵は6万9137人、輜重兵は1836人で輜重輸卒が1万5492人である。現役兵全体の15%にもあたる。輜重兵が1.8%だからざっと8倍。これにすぐに入営はしないが、いずれ教育召集を受けるだろう補充兵は、歩兵が7万2740人、輜重兵は950人、輜重輸卒はなんと6万3012人にもなっていた。補充兵に指定された者は全部で15万3080名だから、その全体の4割が輸卒だった。

 

輜重兵と輜重輸卒

 

 輜重兵は戦闘兵科である。この兵科が確定したのは1872(明治5)年の徴兵令の発布からだった。常備軍・後備軍・国民軍と役種を分けた。兵種を歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の5つに分けた。翌73年5月には陸軍武官官等表ができた。このとき、憲兵科が初めて設けられた(ただし、「憲兵条例」が出され、部隊が置かれたのは1881年のこと)。輜重科にもほかの兵科と同じに大佐から少尉までの将校、曹長・軍曹・伍長の下士がある。このとき興味深いのが参謀科、要塞参謀科という兵科があることだ。ただし参謀科には下士がなく、要塞参謀科には下士があった。

 

 輜重兵は徴兵検査の概則によれば、『馬の扱いに慣れ、数理的な能力が高く、指揮能力がある者』を選ぶとある。砲兵の『体格がよく、膂力にすぐれ、数理的・・・』と比べるとその特性がよく分かる。騎兵と同じで乗馬兵であり、騎兵銃を背負い、指揮用のサーベルを吊っていた。いわゆる「乗馬・帯刀本分」とされた。ほかの兵科兵は騎兵以外「帯剣本分」であり、銃剣を腰に着ける規定だった。それが輜重兵は2等卒でも乗馬長靴、騎兵用の外套、颯爽たる姿と思われていた。指揮能力が必要というのは、たとえ下級の1等卒でも駄馬を牽く輸卒4人を指揮したからだ。『輜重上等兵は歩兵軍曹、輜重下士は歩兵少尉』と謳われたのは指揮する人の数を言ったものである。輜重兵操典を見ても、主な記述は下馬しての歩兵戦闘である。3人で組を作り、2人が馬を1人に預け、歩兵と同じく射撃で敵に対抗する。

 

 輸卒の教育は、まず『馬事提要(ばじていよう)』という馬の取り扱いに関するマニュアルから始まる。陸軍省副官の名義で発行されたそれは一般書店でも買うことができた。1944(昭和19)年5月5日、入営当日、安田万吉は分隊長の軍曹から『輓馬及び駄馬の馭術其他規程の動作を習熟するため』に召集されたと言われる。『輜重兵操典』と『馬事提要』は入営時にそれぞれが書店で買ってくるように令状の裏に書かれていた。

 

 この軍隊生活の苦労は大東亜戦争になって召集された、一作家の体験を元にした小説に詳しく書かれている。『越前竹人形』や『五番町夕霧楼』などで知られる水上勉(みなかみ・つとむ)は輜重特務兵だった(ただし、制度では昭和14年には特務兵という名称はなくなっていた)。作中では安田2等兵だった水上の体験記は第七回吉川栄治文学賞を与えられた『兵卒の?(たてがみ)』(1972年・新潮社)という。水上が教育を受けた中部ヨンサンは、輓馬2個中隊、自動車1個中隊の3個中隊で編成されていた。その第2中隊(輓馬)第1小隊第11分隊に作家は編入されることになった。

 

 1931(昭和6)年に陸軍は階級呼称を変えた。それまでの1等卒・2等卒を廃止し、一律に兵とした。もともと兵というのは、単独任務をこなせる上等兵だけだった。あわせて兵卒といったが、このときの改正で、輜重輸卒も「輜重特務兵」といわれるようになった。同じように、衛生部の看護卒・補助看護卒・磨工卒も廃止された。それぞれ看護兵・補助看護兵・磨工兵と改称された。また、1937(昭和12)年には輜重特務1等兵、同2等兵とされ、翌々年にはすべて輜重兵とされるようになった。

 

 25歳で小学校助教だった水上(丙種合格・第二国民兵役・私立大学文学部中退)の充員(補充)召集令状には中部第43部隊、もともとは「墨染輜重隊(京都第16師団・第53輜重兵聯隊)」に出頭せよとあり、その令状の枠の外に○に囲まれた馬というスタンプがあった。日露戦争後に輜重輸卒で入営した父は言った。『とうとう来よったわ、馬のシルシは輸卒やでぇ』と。しかし、そうであれば、父親のように1カ月、あるいは平時のように3カ月で帰れるかもしれないと父も本人も少しは安心したらしい。というのは輸卒の人員数である。

 

 1912(明治45)年の数字をあげたが、平時に1万5000名もの輸卒を全部収容する設備もなければ、教育にあたる人の余裕もない。そこで輜重輸卒の現役兵は1年間を4期に分けて入営し、それぞれ3カ月の教育で帰休兵になった。帰休兵とは兵営にいずに家郷で働きながら服役することをいう。つまり、身分は現役兵だが、ふだん通りの生活が保証されたのだ。補充兵役や第二国民兵の輸卒などには教育召集のほかに、まず令状など来なかったのである。

 

 輜重輸卒は、ほかの雑卒といわれた砲兵輸卒、砲兵助卒、補助看護卒と同じように2等卒から上級に進む道がなかった。つまり、どれだけ軍隊にいようと永久に1つ星の2等卒扱いだった。砲兵輸卒と助卒はそれぞれ砲兵科の中にあり、輸卒は野戦で弾薬大隊に所属して弾薬輸送を行なった。助卒は要塞砲兵の下にいて、弾薬運搬に従った。なお、この2つの卒は1907(明治40)年に廃止された。銃砲弾の補給は輜重兵が行なうようになったからだろう。

 

 補助看護卒は1900(明治33)年に置かれて、上等・1等・2等の正規看護卒の補助作業を行なった。補助衛生兵といわれるようになり1等卒まで進めるようになったのは、やはり1937(昭和12)年からである。そして輜重特務兵と同じく、昭和14年から衛生兵の中に吸収された。

 

兵站、行李と輜重兵

 

 1885(明治18)年、輜重兵1個大隊の編制が定められた。これを明治20年までの整備目標としたのだった。大隊本部には少佐の大隊長、副官中尉、下副官の曹長、器械掛曹長、1等軍曹(書簡掛)、2等軍曹は4名、書記、病室掛、喇叭長。軍曹に2階級あるのは、この時期、伍長という官名が廃止されていたからである(明治17年から、伍長復活は明治32年)。2等軍曹は伍長にあたる。なお、副官とは大隊長の秘書の役目を果たす将校である。本部付として、経理官、軍医官、副軍医官、獣医官、副獣医官の5人の士官がいる。下士は蹄鉄工長(軍曹相当)、蹄鉄下工長(伍長同)、書記(経理部下士)、看護長(衛生部下士)、看馬長(獣医部下士)、看護卒(のちの衛生兵)2名、看馬卒(獣医部の卒)2名、それに職工として蹄鉄工6名(獣医部卒)、縫工2名、靴工2名(いずれも経理部卒)がいた。

 

 中隊は2個である。中隊は4個小隊だった。中隊長は大尉、小隊長は中尉、少尉2名ずつ、曹長2名、1等軍曹10名(うち半小隊長4・給養掛1)、2等軍曹5名(うち1名は炊事掛)、上等兵(分隊長)16名、1等卒25名(喇叭卒1)、2等卒48名(喇叭卒2)であり、輜重輸卒が180名というのが定数になる。乗馬が71頭、駄馬と駕馬がそれぞれ40頭。駕馬とは後の輓馬のことで荷車を牽く。合計151頭である。2個中隊と本部をあわせて、人員618名、馬が311頭だった。

 

 備考欄を見ると、輸卒は毎年360名を入営させる。ただし、3期に分けて4カ月間に120名ずつ教育するとある。輸卒の服役は現役1年、予備役6カ年、その後、後備役に編入する。輸卒の現役徴集人数は各軍管では2500人ずつなので、360人以外は入営させない。郷里で服務させるので、簡閲点呼には呼び出し軍隊手帳を交付するとある。

 

 また、1886(明治19)年には前年の編制の見直しと、部隊付の「行李」、「兵站縦列」、「輜重監視隊」が定められた。平時編制の1個大隊の大隊本部と2個中隊を、戦時には大隊本部と5個糧秣縦列と1個馬廠にすることになった。各中隊は戦時に動員される輜重輸卒他を加えて、戦闘態勢が整った人員も増えた縦列に変わることになる。馬廠は損耗に備えて、常時100頭の予備軍馬をもつ部隊である。

 

 行李は大・小の二種に分けられた。大行李は『宿営地に於いて要する物品』、少行李は『戦闘中必需の物品』を運び、前者は軍隊とは少し離れて従う。後者は軍隊に直従する存在である。小行李は衛生資材、弾薬を運ぶ駄馬で編成される。大行李は将校荷物、炊事具、糧秣を運ぶのが役目だった。

 

 兵站の輸送隊も考えられ、各師団に1個ずつ「兵站縦列」と3個の「輜重監視隊」を編成させ運用することにした。兵站縦列は師団長から離れ、軍司令官の直轄部隊として軍兵站監の隷下となり、後方の倉庫から師団までの糧秣輸送に働くことになる。つまり、輜重兵大隊は師団兵站の主役であり、軍単位では兵站部隊がその役をこなすことになった。陸軍大学校教官のプロシャ陸軍メッケル少佐の指導の結果だった。

 

 輜重監視隊もよく知られていない部隊だろう。将校以下50名の主に後備役兵科下士によって編成される完全乗馬部隊だった。輜重兵と同じく乗馬ズボンに軍刀を吊り、騎兵銃を背負った。師団単位で民間から公募された「軍夫」が構成する「輜重縦列(主に糧秣輸送)」を管理し、指揮し、護衛する戦闘部隊である。同年兵と戦場で出会った召集歩兵軍曹の日記がある。騎兵服(乗馬ズボン)をはいて軍刀を提げ、それでいて緋色(歩兵)の襟章を着けたままの後備役からの召集軍曹から『わしは輜重監視隊じゃ』と教わったことを日記に書いている。輜重監視隊は将校以下50名の完全乗馬部隊だった。

 

 注目すべきは日清戦争直前の1894(明治27)年の輜重兵大隊編制拡充の完成である。4月には徴集新入営兵人員数が定められた。近衛師団輜重兵80、輸卒240、以下第1師団から第6同まで各輜重兵64名、輸卒360名ずつの合計464名と2400名だった。6月には「兵站竝(ならびに)集積場各部」の所在を明らかにする標旗を制定した。縦2尺(約60センチメートル)、横3尺(同90センチメートル)の日章旗で「兵站監本部」、「停車場司令部」、「野戦首砲廠」などと縦書きで記入された。7月2日には馬で牽く輜重車、大隊弾薬車とそれぞれの輓具の制式が決められた。この図を見ると、輓馬の体高は1400ミリメートルとされている。体長も鼻の先から尻まで2メートル25センチである。体高はやはり5尺にはとても届いていなかったのだ。

 

 そして、8月1日、清国に対して宣戦が布告された。このとき、大本営幕僚の中に、兵站総監部総監として陸軍中将川上操六、同参謀として歩兵少佐田村怡與造の名前があり、運輸通信長官部長官は歩兵大佐寺内正毅、運輸鉄道船舶輸送委員は工兵少佐山根武亮、運輸野戦高等電信部長は工兵少佐渡辺当次だった。全国から動員された軍隊を港に運び、渡海させ、戦場へ移動させる仕組みの一端である。

 

 開戦時の輜重兵大隊職員表の一部を見てみよう。第1師団輜重兵第1大隊は以下の通りである。

 

 輜重兵少佐(大隊長)、大隊付同大尉1、副官中尉1、下副官曹長1、中隊長大尉2、大隊付中尉4、同少尉4、輜重廠長大尉1、監務中尉1とある。興味深いのは将校の中に爵位をもつ華族がいることだ。中尉の中に男爵、少尉の中に子爵がいた。難波宗美輜重兵少尉は公家の羽林家の家柄の当主であり、山名義路同中尉は但馬国村岡の旧藩主だった。やっぱり華族様は輜重兵かと言われたのか、どうか。おそらく2人はもともと華族出身者が多かった騎兵科からの転科だったのだろう。

 

 次回は「戦う輜重隊」として、日清戦争を戦い抜いた輜重隊とさらに拡大した兵站を説明しよう。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

(2016年(平成28年)1月13日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


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