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荒木肇さんの最新刊 自衛隊警務隊逮捕術 …警務隊長は語る。「我々警務官は平素の暮らしの中で規律違反や、犯罪への対応をしているが、今やその平素が有事に近い。…相手にする犯罪者、犯行形態は多様である。そうした事態に立ち向かえる意欲と能力を持った人材がこれからますます必要になる」〈本文より〉 |
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はじめに
先週の終りに日清戦争のことを書こうと思いましたが、その前に当時の徴兵制度の仕組みをご説明した方がいいかなと思いました。それは、案外、知られていないからです。若い方ばかりか、年配といってもわたしと同世代の方でもあまりご存じない。
わが国が未曾有の敗戦のおかげで陸海軍が解体されてから75年も経ちました。わたしの亡父は1924(大正13)年生まれでした。半世紀前に壮烈な自決で亡くなった三島由紀夫氏よりも1歳の年長です。
三島氏は本籍地の兵庫県印南郡志方村(現加古川市志方町)で検査を受け、亡父は東京で受験しました。三島氏は当時、生まれも育ちも東京都民でしたが、本籍地で受験したのです。つまり、徴兵検査は本籍地で受けたのでした。結果は「第2乙種合格」だと、小説「仮面の告白」で書いています。
亡父は理科系の学生だったのですが、1943(昭和18)年11月に検査を受けました。有名な学徒出陣はこのときのことでした。筋骨が甲種と比べると細かったので「第1乙種合格」でした。三島氏は20年2月に入営するよう通知があったといいます。実際には入営前の身体検査で「即日帰郷」という診断を受けずに、とうとう兵隊になることはできませんでした。
今回から数回にわたって、兵役と兵科の決定について調べてみましょう。
1927(昭和2)年の兵役法への動き
わが国の兵役制度は昭和の初めに大きな変更がされた。昭和2(1927)年4月1日に公布された新しい「兵役法」は世界大戦(当たり前だが、まだ2回目は起きていない)の影響が大きかった社会に対応したものだった。
まず、大正時代のわが国では、「徴兵制廃止」の論調が大きくなっていた。世界大戦の後始末をするベルサイユ会議でも、平和実現のためには大きな軍隊は不要であるという議論がされていたせいもある。今でも国際連合では・・・と語る「識者」やジャーナリストもいるが、当時も「国際連盟では」と主張する人が多かった。
たとえば、「東京朝日新聞」は1919(大正8)年1月には一週間にわたって論説委員が徴兵制廃止について大きな記事を書いた。それによると、「徴兵制度そのものは生まれてから長くはない」、また「国際連盟で有力な英米ともに徴兵制を採っていない」、そこでいずれ徴兵制度廃止の決議が絶対に行なわれるだろうとのことだった。だから、早く日本も徴兵制を廃止すべきだとの主張である。当時の「大学人」の多くはそれに喝采し、賛同する論陣を張っていた。
ところが、これが大誤報になる。フランスのクレマンソー大統領、イタリア首相オルランドの猛反対によって、この決議案は否決されることになった。そのことについての朝日新聞の報道は未練がましいが、こうした世論は陸軍の危機感を大きく煽ることになる。
フランスは兵役法を全面的に強化改正した。ドイツとの再戦を警戒したからである。ロシアもまた赤衛軍を強化し国民皆兵制度をさらに徹底した。ところが、わが国のジャーナリズムや学会世論だけは、ロシアとは話し合いをすればよい、中国ともお互いの立場を理解しあえば問題は解決すると主張していたのである。どこか100年前は今とよく似ている。
こうして陸軍省内に1921(大正10)年には調査委員会が発足する。改正準備が実際に行なわれ始めたのは、若槻礼次郎首相と宇垣陸相の時代である。この背景には、大正末頃の「普通選挙」状況と、青年訓練と学校教練の実施と関係があるだろう。
普通選挙のこととは、男子なら誰でも制限なしに選挙権をもつことをいう。この制度の実施は社会の進歩と認められたが、世界大戦から学んだ「総力戦体制」の建設にも大きく関係する。少数の選ばれた兵士だけが軍務に服すのではなく、多くの兵士が短い期間で戦えるようにする。そのためには、普通選挙の恩恵を受ける多くの社会人の支持がなくてはならない。
また、世界大戦中には、わが国では重化学工業が大きく発展した。そうなると働き手を長い期間、兵営に拘束することはマイナス要素になると考えられた。
青年訓練所とは
青年訓練所(1926年発足)とは、夜間に設備があく小学校を利用した地域の青年たちへの軍事予備教育のことである。広くとられた校庭には雲梯(うんてい)や肋木(ろくぼく)、登り棒や鉄棒が整備された。雲梯は壕にかけ渡した梯子であり、もちろん腕で支えて渡ることもあるが、上を駆けぬける訓練にも使えた。肋木は城壁に立てかけた登攀(とうはん)用の訓練設備である。
もちろん、在営年限の短縮というご褒美もあった。もともと陸軍の現役は3年だったが、1907(明治40)年ころから、歩兵隊では1年間の帰休制度が始まっていた。つまり、兵営にいる期間が2年になったのだ。残りの1年間は、帰休兵だから完全に義務から解放されたわけではないが、召集がない限り故郷で働いて暮らせるということである。
青年訓練所とは、やはり小学校に併設された共学の実業補習学校と併置された正式の学校制度といっていい。満16歳から20歳まで男子青年に修身公民、普通教育、職業科などを教えた。教員はたいていがその小学校に勤務する者である。また、教練があり、銃をもつこともあり、教員は資格を認定された在郷軍人というのが普通だった。
当時の訓導(くんどう)といわれた師範学校を卒業した正教員も多くが、特別な現役兵勤務を終えた国民軍伍長だった。中には優秀な成績から「国民軍将校適任證」を持った人までもいた。その教授内容については文部大臣が定めていた。
訓練所は市町村だけが設置したわけではない、炭坑や工場といった私企業も基準を満たせば、月に3回から4回、1回4〜5時間の訓練を行なうこともできた。地域の学校も同じであり、故郷に暮らす者も都会に働きに出た者も公平になるように配慮されていたわけだ。
そうして、ここでの修業成績が良ければ上申され、1年6カ月で帰休することもできた。
学校配属将校制度
興味深いのは、教科書や学界の定説では大正軍縮で余った現役将校を、中等学校以上の配属将校にしたということになっている。まるで、陸軍側が主導して失業対策のために仕組んだ軍国的な制度だといわんばかりである。そうした書き方や話し方をする人は、あえて資料に目をつぶっているか、無知で定説にのっているだけだろう。
実際は、陸軍部内では、ほとんどの軍人が反対していたのだ。考えてみればよい。民間の学校に出す人は優秀でなくてはならない。優秀な人は軍隊内で活躍させなければ、軍隊の戦力は明らかに低くなるのだ。では、2流の将校でいいか。民間の協力をますます仰がねばならない状況で、反軍、あるいは軍人蔑視の風潮を加速させないか。そうであるなら、やはり誰もが認める優秀な人材を送らねばならない。
また、出向させられる現役将校の立場になってみよう。多くは陸軍士官学校出身の大尉である。自分の部隊の将校団から離れて、知人もいない、しかも異文化の教員世界に出るのだ。当時の学校教員、とりわけ中等学校教員の世界は反軍・反戦思想のメッカだった。中等学校教員は、当時としてはインテリである。わが国の知識人は、何より反体制、反権力が常識だった。
「偕行社記事」にも、配属将校体験者による悲しい投稿が見られる。職員室では爪はじきになり、無視どころか嫌がらせもされる。軍人への偏見のひどさは、戦後の自衛隊嫌悪、根拠ない侮蔑とまったく変わらなかった。
当時、中等学校教員になるには大きく分けて3つのコースがあった。トップエリートは、わが国に2校しかなかった、広島と東京の高等師範学校卒業である。この人たちの多くは中学卒業で専門学校であるこの学校を出た。次には、大学や専門学校の中等教員養成コースを出て採用された人たちである。最後に検定合格者であり、苦学をしてきた人も多かった。正規の学歴ももたず努力をしてきた人だ。軍人への偏見や差別観は、このエリートの階段順に増えていったことだろう。
次回は幹部候補生制度について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)12月2日配信)
著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊警務隊逮捕術』((並木書房)がある。
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