陸軍小火器史(10) 西南戦争(1)─不統一の小銃装備で戦った西南戦争─

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ご挨拶

 

 成人の日も過ぎ、1月も半ばをこえました。依然として韓国駆逐艦による火器管制レーダーの照射問題は進展を見せません。不法な徴用工の請求裁判について、韓国大統領は「日本側の配慮」とか「謙虚な姿勢をとれ」などと妄言を弄しています。

 

 ひとつ分かったことがありました。この韓国の文武の不法行動について、日頃元気に与党批判をする野党が何もいわないことです。たいへんわかりやすい構図になってきました。水面下で折衝中だといいますが、政府・与党の方々、ここでうやむやにはできません。今までのような「大人の態度」で対応してきた結果がどうなるのか。国民の多くは十分承知しているところです。いろいろな事情もあるかと思いますが、少しでも不透明な部分を少なくしてもらいたい、そう願っています。

 

お礼

 

 MMさま、新年おめでとうございます。さっそくのお便り、ありがとうございます。ご指摘の通り、帆船海軍の黒色火薬の砲撃戦。信号も見えなくなり、フリゲートが圏外から情報も伝達したことが思い出されました。

 

 

政府軍はどのような小銃で戦ったか?

 

 西南戦争(1877年)は、まだその実態についての研究が行き届いていない。定説を検討し、その検討結果が定説になると、また批判されるというのが歴史学の進歩がいまも続いている。研究が終わっていないというのも、いくらでも例があげられる。たとえば政府軍、薩摩軍、どちらの参戦者数も不確かでしかない。また、有名な「田原坂」での戦闘も再検討が進んでいる。司馬遼太郎の書かれた『翔ぶがごとく』に描写された戦闘も史実とは異なるという指摘もされるようになった。畏友、長南政義氏の作戦分析、『歴史群像』の記事などをお奨めしたい。

 

 西南戦争の経緯や、細かい描写はここではひかえる。小銃などの装備については、陸上自衛隊富士学校図書室が所蔵する『新編西南戦史(陸上自衛隊北熊本駐屯地修親会)』に従うことにする。政府軍の参戦者は5万4138名である。薩摩軍はおおよそ3万人とされている。圧倒的に政府軍の方が多いが、損害もまた多かった。ただし、政府軍側が後方兵站の人数もきちんと記録してあるのに、薩摩軍の記録にはほとんどないことなどがあるので、これもまた正確ではない。

 

 政府軍の小銃は4万5281挺とされる。ただし、種類はなんと12種類にものぼった。

 

(1)エンフィールド銃(前装ライフル)  2万4480挺
(2)スナイドル銃(銃尾開閉型莨嚢式)    8287挺
(3)アルビニー銃(銃尾開閉活罨式)     3845挺
(4)ドライゼ銃(銃尾開閉回転鎖閂式)    3533挺
(5)ヘンリー・マルチニー銃(銃尾開閉底碪式)2902挺
(6)長スペンサー銃(銃尾開閉底碪式)    1000挺

 

が主なものである。合計は4万4047挺となるが、ほかにスペンサー・カービンなども投入された結果、合計とは合っていない。長スペンサー・ライフルが1000挺という丸められた数字にもなっていることに原因がある。

 

 幕末以来の前装式ライフルのエンフィールド銃が全体の54%にもなるが、熊本籠城軍がのちに弾薬不足を恐れたときに、スナイドル銃の使用を控えさせたという記録もある。予備銃は多くがエンフィールド銃だったとも想像される。

 

(3)のアルビニー銃は後装型ライフルで「活罨(かつあん)」式という作動法式である。「罨」とは「網」のことをいう。上からかぶせて取るものを罨という。槓杆、あるいは把手を上に引き上げることで遊底が上にあがってくる。薬室は銃尾と一体化していて、尾栓の部分が蝶つがいで動くようになっている。このアルビニー銃は当時のベルギー軍の制式小銃である。遊底にはバネと撃針、抽筒子(ちゅうとうし・エジェクター)が組み込まれている。撃鉄は右側にある。引鉄を引くと遊底後部の凹部に撃鉄が入り、撃針を打つと同時に遊底が外れることを防ぐ。この銃はエンフィールド銃を後装式に改めるときに、スナイドル銃に改造するよりも簡単なために、長州の萩や鹿児島で盛んに造られたという。

 

 使用薬莢はやはり金属製のボクサー型パトロンである。歩兵銃は口径14.5ミリ、全長1240ミリ、重量4.1キログラム、腔綫は5条、照尺は1250メートルだった。同騎兵銃は全長950ミリ、重量3.1キロと軽くなり、ただし照尺は300メートルとなった。

 

(4)のドライゼ銃は世界最初のボルトアクションによる。口径は15ミリであり、「針撃ち銃」といわれたことは前にも書いた。

 

(5)ヘンリー・マルチニー銃については詳しい解説が陸軍兵器本廠の『兵器廠保管参考兵器沿革書』(昭和4年刊行、『日露戦争の兵器』佐山二郎、光文社NF文庫、2005年)に載っている。以下、それにしたがってみる。

 

 ヘンリー・マルチニーというのは、ヘンリーが考案した腔綫(ライフリング)とマルチニーが案出した銃尾機関を備えたからである。銃尾の中央に撃鉄がみえる底碪式(ていがんしき)の後装銃だった。1874(明治7)年に英国で制式化された。

 

 わが国では1871(明治4)年に、見本として東京府築地(つきじ・現中央区)にあったスネル商会から1挺を買い取った。翌年4月に「酒田縣(さかたけん)」から申し出があり、500挺を輸入した。1874(明治7)年に廃藩置県が行なわれるまでは、旧大名領は藩とされ、それぞれに自治が行なわれ、藩の軍隊もまた存続していた。この500挺の新式銃の購入は山形県酒田藩軍の装備用だったと思われる。

 

 この当時では、これを新しい国軍の制式小銃に採用しようという意見もあり、明治5年に近衛局(このえきょく)に498挺を交付した。しかし、すぐにスナイドル銃に交換されたという。中央政府直属の兵力として「御親兵」が編成された。その装備銃とされたのだが、スナイドルにすぐに変更されたということになる。こうした銃も廃棄されたり、海外へ売られたりすることもなく、西南戦争でも使われたということである。

 

 1877(明治10)年と翌年には、海軍省から3500挺を陸軍は譲り受けた。これを再び近衛歩兵に再交付したという。しかし、明治15年には近衛兵が「村田銃」を装備することになり、ヘンリー・マルチニー銃はまた海軍に戻された。この銃の評判はよくなかった。射撃時の反動がひどく大きく、教育上の害もあったといわれる。銃床内に鉛をいれて重量を増やし、反動の軽減化を図ろうともしたが、うまくいかなかったらしい。反動が大きく肩が痛かったという経験があると、次の射撃時にはそれを思い出し、どうしても引鉄がガク引きになる。それで射撃訓練にも影響が出たということだ。

 

 銃全長は2種類あり、長い方が1265ミリ、短い方が1246ミリ。口径はどちらも同じで11.43ミリで、重量はそれぞれ4130グラム、3970グラムだった。腔綫数はどちらも7条であり、職人が手で行なう施条だったから手間もかかったことだろう。

 

(6)の長スペンサー銃というのは、幕末・戊辰戦争で使われた7連発スペンサー銃の歩兵用である。さすがにその構造の複雑さや、装填の時間がかかるなどの批判があり、評判が悪かった。要目だけをあげておく。歩兵銃は銃身と銃床をつなぐ環帯が3つ、だから3つバンドといわれた。口径12.5ミリ、全長1187ミリ、腔綫6条、重量4.6キロ、照尺は900ヤードである。

 

小銃と小銃弾の補給─大阪支廠の活動

 

 西南戦争の当時、「砲兵第二方面内砲兵支廠」といわれていたのが、のちの大阪砲兵工廠だった。1875(明治8)年にそれまでの大砲製造所から名称が変えられた。工廠の歴史については、『大阪砲兵工廠の研究』(三宅宏司、1993年、思文閣出版)に詳しい。その西南戦争前後の研究によってみよう。

 

 まず、砲兵工廠の『沿革史』については、次のような記載がある。分かりやすく意訳しておく。

 

「2月14日に西南で変事があり、賊(薩摩私学校生徒)が鹿児島の兵器廠を襲い、そこの器械と火薬を若干奪った。このことより以前に、1月8日に備え付けのスナイドル銃実包製造器械を当廠(大阪)に移し、製作を行なえという命令が下った。そこで2月3日に9等出仕の竹下矩方などを派遣し、同時に廠内にあったスナイドル弾薬を当廠に収容するため、1月22日には傭上(やといあげ)上野秀誉に汽船赤龍丸に搭乗させて鹿児島に派遣し、その命令を監務(かんむ、監督官)陸軍大尉新納(にいろ)軍八に伝えさせた。27日に鹿児島湾に船は投錨し、弾薬若干を搭載したところ、たちまち私学校党によって襲われ、残りの器械弾薬、すべてを略奪されてしまった」

 

 これが有名な薩摩の若手の暴走とされている弾薬庫襲撃事件の「官軍側」の見方を表したものだろう。

 

 また、開戦の日、2月24日には山口県萩小銃製作所を大阪支廠の管轄下に入れて、アルミニー銃を急造させたという記録もある。アルミニー銃は先述の(3)アルビニー銃のことである。『兵器沿革書』には、1872(明治5)年の「御親兵解散」によって近衛兵が編制になったおりに、第1から第3大隊までの装備銃がこれだったという記述がある。こうしたことから萩にも旧藩時代からの銃器・弾薬の製造所があったことが理解できる。

 

 4月6日には火工?実所(かこうてんじつしょ)と雷汞(らいこう)?実所が開かれ、5月20日には薬筒(やくとう)製造所が落成した。火工?実所とは火薬を調合し、薬筒内に発射薬をつめる作業所であり、雷汞?実所は雷酸第二水銀である小粒の雷汞を製造する所である。金属製薬莢はこれに弾頭を組みこんで完成される。

 

 東京の兵器本廠から中継地としての大阪支廠に送られた銃器・弾薬の数の統計がある。2月22日にはスナイドル弾薬100万発、同25日、スナイドル弾薬450万発、スペンサー弾薬50万発。そして26日にはスナイドル銃3000挺となっている。熊本に籠城する政府軍に、薩摩軍が無造作に攻城戦をしかけたのが2月21日のことである。この後、3月5日にはサーベル500本。3月20日までに、スナイドル銃弾は1050万発、スナイドル銃800挺、この他4斤山砲弾、クルップ砲弾などが大阪に到着している。

 

 政府軍兵は盛大に射撃をしたらしい。3月9日には現場から「これまでは1日最大およそ10万発の費消だったが、兵員が増えて近頃は1日でほとんど20万発の平均になるだろう」という電報が来たくらいだ。結局、本廠でも製造が追いつかず、外国製を輸入するような事態になった。

 

 三宅氏によれば、東京の砲兵本廠から送りだされた小銃・同弾丸の数量については次のように推定されている。小銃については、スナイドル銃1万6720挺、エンピール銃2万5870挺、ヘンリー・マルチニー銃4880挺、スペンサー銃2652挺、ツンナール銃1330挺、レカルツ銃1000挺の合計5万2452挺になる。

 

 各小銃用弾丸は、スナイドル銃弾3250万発、エンピール同945万発、ヘンリー・マルチニー同200万発、スペンサー同146万発、ツンナール同196万発、レカルツ同26万発の合計4763万発という膨大な数量になった。

 

射耗、銃器の損傷

 

 銃は消耗品である。野外で使えば思わぬ故障も起きる。部品も壊れる。当時は銃身鋼もあまり堅いものが造れなかった。もっとも現在でもライフルの銃身は金鋸(かねのこぎり)で切れるくらいの軟らかさである。銃腔内に施条するから、あまりに堅くてもいけないからだ。照星や照門もぶつけただけで歪むことがある。甚だしい場合は無理な力がかかると銃身も曲がってしまうことがあった。

 

 村田経芳が新小銃研究のために英国のエンフィールド兵器工廠を訪れたときである。1874(明治7)年のことだった。当時は工廠の全力をあげて新小銃、ヘンリー・マルチニー銃を製造していた頃である。生産量を聞くと、日産500挺であるという。ただ有事には1500挺にまで拡充することができるだけの設備があった。またバーミンガムの中小兵器工場群をフル稼働すると、日産1万挺の製造能力があると報告書にも驚きをこめて村田は書いている。

 

 フランス軍のサンティチェンヌを訪れると、そこの能力は日産2400挺であるという。フランスの常備軍は当時50万人、1人あたり5挺を準備すると250万挺を必要とすると説明を受けている。そうした設備を目の当たりにし、どれほど村田は驚いたことだろうか。

 

 小銃は故障する。部品をその場で交換すれば直るものはいい。それ以上になると、戦場後方の修理所に送られることになる。銃工兵や技術者が対応した。どうにもならない物は廃棄する。そういう間にも、前線には故障がない物を送りだしていかねばならない。

 

 支廠で製造した物は兵器・弾薬だけではなかった。当時、スナイドル、エンフィールド銃弾は500発入りの木製弾薬箱に入れられた。スナイドル1万1500箱、エンフィールド9000個である。これらの箱は馬の背に載せられたり、軍夫によってかつがれたりして前線に送られた。当然、損耗もあり、壊れたものもあり、回収にも人の手が使われた。エンフィールドの実包も、630万発が生産されている。

 

『西南戦史』には銃砲の損傷・廃棄にいたった数量がある。単位はすべて挺である。スナイドル銃9337、エンフィールド銃2111、マルチニー銃612、スペンサー銃425、ツンナール銃4820、アルミニー銃1782、その他小銃556、合計で1万9743挺になった。ついでに火砲の損耗も書いておこう。単位はすべて門である。4斤山砲22、同野砲12、クルップ砲10、アームストロング砲1、各種臼砲、その他の砲が31、合計76門だった。

 

 小銃の弾薬消耗数もある。すべて単位は発とする。スナイドル実包2614万5038、エンフィールド同342万3780、マルチニー同7万7843、スペンサー同11万5132、ツンナール同205万4731、その他は45万6868発。合計で3227万3392発となった。火砲弾の射耗は4斤山砲弾薬6万3009発、同野砲6686、各種臼砲同9214、クルップ砲642、アームストロング43、その他弾薬は2439発で合計は8万2033発である。

 

 およその数で理解しておこう。小銃の損廃数は約2万挺、砲兵本廠(東京)から送りだされた約5万2000挺の38.5%にものぼった。もちろん、この中には戦闘中に敗走し、退却する時に放棄したものも含まれている。当時の鎮台兵はしばしば兵器・装具を捨てて潰走した。新型のスナイドル銃も薩摩軍に鹵獲されて、元の主人に向けて撃たれることも多かった。

 

 このとき、小銃弾薬はどうにか国産でまかなうことができた。福岡、長崎での部隊が受領した数は約6300万発といわれる。すでに部隊などで備蓄されていた数量もあっただろうが、およそ半分の3200万発が消費された。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2019年(平成31年)1月16日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


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「日本陸軍の兵站戦のバックナンバー 陸軍小火器史(40) 番外編(12)─予備隊が発足した―(2019年(令和元年)8月14日配信)です。