陸軍経理部(34) ―軍馬の話(20)

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ご挨拶

 

 YHさま、モンゴルの馬についてのありがたい映像やご考察、まことにありがとうございました。おっしゃるとおり、「元寇」ならぬ「モンゴル襲来」については、たくさん検討を要するところですね。

 

 もうしばらくするとモンゴル襲来時の元・高麗軍のことなどふれようと考えています。新しい研究成果が次々出ています。とりわけ、日、元高麗軍の互いの兵站環境、計画、戦闘時の馬の役割などをご紹介します。そういうことからもご投稿、ありがとうございます。

 

 

『方丈記』に書かれた西国の飢饉

 

 源平合戦で知られる治承・寿永の内乱期は、同時に大凶作、大飢饉の時代といわれている。1180(治承4)年は異常気象の年だった。

 

 国語の教材としても知られる『方丈記(ほうじょうき)』は鴨長明(かもの・ちょうめい、1155〜1216年)によって書かれたエッセイである。本名は「ながあきら」と読み、下鴨社正禰宜惣官(しもかもしゃ・しょうねぎ・そうかん)長継(ながつぐ)の子、7歳で従五位下(じゅうごいのげ)に叙任されるが父を失い、和歌と琵琶の道に進んだ。

 

 下鴨社は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の通称である。京都市左京区にあり、賀茂川と高野川にはさまれている地域一帯を下鴨ということから、そう呼ばれるようになったのだろう。平安遷都以後、上賀茂神社(賀茂別雷神社・かものわけいかずちじんじゃ)と共に王城鎮護の社としてもっとも崇敬を集めた。葵祭(あおいまつり)、別名賀茂祭(かもまつり)は上・下両社の祭礼である。

 

 長明は1200年には後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)の和歌所寄人(よりうど)となるが、河合社(ただすしゃ)の禰宜(ねぎ)職につけなかった。1204(元久元)年に世をはかなみ遁世(とんせい)した。『方丈記』は1212年に成立と伝えられるが、「人と棲みか」についての無常をテーマにしている。

 

 一方、当時の五大災厄(さいやく)といわれた1177(安元3)年の大火、1180(治承4)年の辻風と福原遷都による混乱、1181(養和元)年からの飢饉、1185(文治元)年の大地震については見聞体験と実感に基づく視覚的かつ迫真的描写で知られている。

 

鴨長明は悲劇を書いた

 

「養和のころだったろうか、昔のことでよく覚えていない。2年ほどの間、世間一般飢渇(きかつ)して、あさましいことがあった。春、夏は日照り続き、秋は大風・洪水などよくないことが続いてしまい、五穀(ごこく)が実らなかった。(五穀とは米、麦、粟(あわ)、黍(きび)、豆をいう。黍とはイネ科の1年草で実は食用になった)
このため諸国の民は、自分の地域を捨てて流浪し、家を捨てて山に移り住んだ」

 

 さまざまな祈祷も行なわれたが一向に効き目もなかった。

 

「京(みやこ)というものは、なんでも田舎に頼っているものだから、地方から何も上げられてこないと、どうにもならない。なんとかならないかと、さまざまな財物をかたっぱしから捨てても(食物を)求めようとするけれど、とてもうまくいくものではない。たまたま交換のチャンスがあっても、金より粟(あわ)のほうが上になる。乞食(こつじき)が路傍にあふれて、なげき悲しむ声が耳に満ちてくる。
 1年間はこのように過ぎて、明けた年は立ち直るだろうと思っていたら、よくなるどころか疫病(えきびょう)が大流行した。築地塀(ついじべい)の横や、路傍に、飢死者などは数も知れない。死骸を片づけ、捨てることもできないので、死臭があたり一面に広がり、くずれていく様子など目も当てられない。河原などは馬も車も通れないほどである」

 

 ある僧が亡くなった人たちを弔うために死骸の供養をし、額に「阿」の字を書いていって数を調べたら、4万2300余りだったという。しかもそれは目につく路上などだけだった。

 

 治承4年の気候不順と大凶作、翌年の大飢饉、さらに翌年の疫病の流行などの悲惨な飢饉の状況を正確に描いている。

 

 地方から運ばれてくる穀類が届かない。田舎の百姓たちも田畑や家を捨てて、木の実などがある山に逃げ込んでしまった。

 

治承4年の異常気象

 

 1180(治承4)年7月の記録には、5月から雨が降らなかった。水が無くなったともある。夏季の干ばつだった。ある貴族の日記にも8月6日になって、「雨が降った。去る6月から炎天になり、今日初めて雨が降った。天下みな損亡(そんぼう)してしまった」とある。この年の8月6日はグレゴリオ暦の9月4日にあたる。今でいう7、8月の2か月間、少しも雨が降らなかった。しかも、この年は、『方丈記』にもあるように秋には大型台風がやってきた。それが8月26日である。

 

 台風が来たのは関東も例外ではない。『吾妻鏡』にも翌日の27日の記録に、「午後4時前後から風雨が激しかった」とあり、暴風雨圏内に入ったことが分かる。そうして、この日は衣笠城(きぬがさじょう・神奈川県横須賀市)を落とされた三浦一族は海を渡って安房国(千葉県南端)に逃亡した。そして翌日は、台風一過の後、石橋山(いしばしやま・神奈川県小田原市)合戦に敗れた頼朝が真鶴岬(まなづるみさき・神奈川県真鶴町)から安房国に渡った日である。

 

西だけではなかった

 

 これまで定説、あるいは常識として、平家の本拠地西国(さいごく)だけが凶作で、源氏の支配地である東国には飢饉がなかった。したがって源氏軍が兵站に困らず、平氏軍の敗因の一つにそれがあるとされてきた。

 

 しかし、細かに記録を捜された川合氏によれば、摂関家領、越後国白河荘(しらかわのしょう・新潟県)の作田注文(ちゅうもん)によると、治承4年分は領主の城助職(じょうの・すけもと)に兵粮米(ひょうろうまい)として集められ不明だが、翌5年は作田率が大きく下がっている。作田149町8段120歩のうち損田は51町6段240歩と、34.5%もの高率でまともな収穫がなかったことが分かる。西国と東国で豊作と凶作にズレが生まれるのは当然としても、治承5年には東国でも凶作だったことは確かではないかと川合氏は指摘している。

 

 1181(治承5)年といえば、3月に源行家(為義の十男、頼朝の叔父にあたる。新宮十郎と名乗った)を平氏軍が美濃・尾張国境の墨俣川(すのまたがわ)で破り、信濃国(しなののくに・長野県)や北陸で小戦闘がある程度で、両軍ともに軍事活動は不活発だった。この原因は政治的な動きの膠着(こうちゃく)があっただけではなく、両軍ともに積極的な行動を起こせなかったためともいえるのではないか。その背景には兵粮不足、馬糧不足があったに違いないだろう。

 

一国平均役(いっこくへいきんやく)─平氏の徴発

 

 1181(治承5)年6月、信濃国に侵攻した城助職(じょうの・すけもと)が本来、摂関家に上納する米を兵粮米として横領した事実があった。実質的な地方領主であった武士団の頭たちは、この時代になると、本所・領家といわれた名目上の荘園領主に請け負った上納米や、貢物(みつぎもの)を送らないようにもなってきていた。

 

 次に紹介するのは、「官兵」だった平氏軍の兵粮米調達の仕組みである。まず、国家の軍隊であり、頭領も国家の役人であったのが平氏だったという当時の事実を確認しておこう。源氏軍は反乱軍だったのだ。国家の秩序を破り、勝手に東国の武士の頭領たちが同盟を結んで頼朝をかついで盟主にした。そういった形態が源氏軍だった。

 

 平氏は国家の運営の手続きにそって、事を行なった。まず、軍費の賦課(ふか)は、諸国の国衙(こくが)機構を通じて「国内一同に宛て催す(あてもよおす)」ものだった。貴族や寺社の荘園・私領・国衙領を問わず、平均されて課されるものである。

 

 先に書いた源行家軍を墨俣(すのまた、ここは後に豊臣秀吉の出世譚にもなる濃尾国境の土地)に迎え撃ったときのことである。

 

 2月7日、宣旨(せんじ)が出された。院(上皇)の命令である。
「官吏、検非違使(けびいし)を美乃国(美濃国)に遣わして、渡し船などを点検して、官軍に渡せ」という宣旨が出された。検非違使というのは朝廷直属の治安対策をうけもった警察軍ともいうようなもの。

 

 それを受けた伊勢国(三重県北中部)の留守所(るすどころ・国司の代理)は2月20日には、

 

「二所大神宮(伊勢神宮・内宮、外宮)の神戸(ごうど・神社支配下の人々)、御厨(みくりや・王家や院、神宮に属して奉仕する地域)、御園(みその・前に同じ)ならびに権門勢家(けんもんせいか、高級貴族)荘園、嶋(しま)、浦(うら)、津(つ)などの違いも構わず、水手(かこ・船舶の乗組員)や雑船などを点検して、尾張国墨俣へ漕送(そうそう・こいで進めること)すべきこと」
という下文(くだしぶみ・命令書)を出した。

 

 渡河作戦用の操作要員と合わせて、船舶も徴集したことが分かる。さらにこのとき、兵粮米もしっかり集めていた。伊勢神宮領の2月24日の「出船注文」には一艘に「兵粮米積む」と記載されている。

 

金持ちにはもっと出させる

 

 当時は財産がある分限者を「有徳人(うとくにん)」といった。平均役でも不足する分は富裕な人から兵粮を集めた。

 

 1181(治承5)年2月7日には、左右京職(きょうしき・京を2分して行政をうけもつ役所)の官人、官使(かんし)、検非違使たちに京に住む人々の屋敷地の規模や住人の数を調べるように宣旨が出た。

 

 右大臣だった九条兼実(くじょう・かねざね)は、日記に次のように記した。

 

「公家の中の富裕な者を調べて、兵粮米を集めるのだという。ただし、行なわれれば兵粮米だけでは済まないだろう。院や宮家、公卿の諸家も備蓄米を供出させられるに違いない。これは天下が飢饉のときにあたって、豊かな家から貧しい者たちに与えるという意味があるという」

 

 このような富裕層からの徴発は5月には大和国(奈良県)でも行なわれた。驚くのは供出を免れようとした富裕者の屋敷に官兵が押しこみ、身柄も押さえてしまったことがあることだ。

 

 こうして1181(治承5)年には養和の大飢饉が広がる中で、平氏は西海道(九州など)や北陸道などから兵粮米を集めようとするが、結局はうまく行かなかった。「兵粮、すでに尽き、征伐するに力なし」とか、「官兵の兵粮が尽きてしまった。もう対策はない」などと言われるようになっていった。

 

 穀物を多く食べてしまう馬。青草を大量に必要とする馬。馬糧についての記述はなかなか見られないが、やせ衰えて病気になり、倒れてゆく馬も増えていっただろう。

 

 それでは、この後、平氏軍の兵站はどうなっていったのだろうか。さらに進撃した先では「現地調達」が行なわれていくようになる。その行動は京をおさえた木曽義仲軍も同じだった。京の町での木曽兵の暴行はいまになっても有名だが、兵站の不備がそれを招いたと言えるだろう。次回は、いささか駆け足で平氏の滅亡までをまとめていこう。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2018年(平成30年)8月29日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


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