陸軍経理部(33) ―軍馬の話(19)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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ご挨拶

 

? 立秋も過ぎたというのに、一向に秋の気配がありません。しかも連続して発生する台風。被害はいかがでしょうか。

 

 それにしても2歳の男の子の行方不明が解決しました。立派なボランティアのご老人が大活躍されたのです。それにしても、プロのはずの警察や消防はどうしたのでしょう。捜索のノウハウが蓄積されていなかったなと想像します。ご老人の「幼い子供は上にあがる」という言葉を聞いて、不思議に納得できました。経験がいわせた言葉なのでしょう。

 

 ぜひ、警察も消防もこれを大きな教訓として今後に役立てるべきです。

 

 

人はどこから集められたか?

 

 大規模な土木工事を行なったのはいったい誰だったのだろう。逆茂木(さかもぎ)には多くの樹木がいる。山から伐り出し、陣地へ運ぶ。その小枝を払い、組み上げる労力が要る。重機もなく手作業で土を掘る、道を横切るように穴を掘った。空堀も造った。それらの掘り上げた大量の土を運び、今度は土塁を築く。当然、地固めの手間も要る。矢倉を建てるのに必要な太い丸太を切り出し、製材し、組み立て、それらを縛着する手間。

 

 川合先生は1つの古文書の存在を教えてくれている。京都府南部にある相楽郡和束町(そうらくぐん・わづかちょう)。現在は名産地の宇治(うじ)を抜いて、府下最大の煎茶(せんちゃ)生産地として知られている。町域は木津川(きづがわ)の支流になる和束川の全流域にわたり、標高400〜600メートルの山地が大部分をしめているが、その傾斜を利用した茶畑のおかげである。中世にはその地に住む人々は、技能集団として「和束杣(わづかそま)」として知られていた。

 

 その和束杣(わづかそま)の杣工(そまく・きこり)たちの訴状である。そこからうかがえる動員の実態を解説しよう。

 

 1183(寿永2)年3月に平氏軍がやってきた。この頃、北陸道の木曽義仲の反乱軍を鎮圧のために各地で兵粮米(ひょうろうまい)や下級兵士を集めていた。

 

「この和束杣にも近くの祝園荘(ほうぞのしょう・現京都府南部精華町東部)の住人である『野の馬掾(うまのじょう)』がやってきて『上からの指示」だといって兵士役(軍役・軍への奉仕、必ずしも戦闘への参加は指さない)を催促している。また、さらに有力な人が京からやってきて、強制的に『杣工(そまく)」を集めるという話がある。そのようなことには、とても耐えられるものではない」

 

 馬掾はおそらく武装した荘官で、平氏への奉仕が認められ、馬寮(めりょう)の掾(じょう・四等官の最下級)を授けられた者だろう。もちろん、無位無官の杣たちにとっては、とても逆らえない権威をもっていたし、専門武士化し、多くの郎等(ろうどう・子飼いの家来)も養っていたと思われる。当時の平氏軍は「官軍」であり、その権威も背負っていたのだろう。

 

 馬掾からの催促と合わせて直接に都からの使い、もし両方が乱入してくるなら、どうやって工(たくみ)たちは杣にとどまることができるだろう。

 

「御杣工(おんそまく)等は弓箭刀兵(きゅうせんとうへい・弓矢や太刀、武具を指す)を帯びるにおよばないとされている(史料より)」

 

 御(おん)は興福寺に対しての直属する立場を示すために、わざわざ杣工につけている。また、どれだけの人数が連れ去られるかを書いている。

 

「しかして工(たくみ)はわずかに36人である。徴発されるのはうち27人であるから言語道断(ごんごどうだん)のことである。もし、この措置を停止しなければ、どこの工が御寺修造役を勤めるのだろうか。なんとかこの知らせをもって、お許しをいただけないだろうか」

 

 なお、この36人とか27人とは、「頭領格(とうりょうかく)」の工をいうものである。のちに中世後期、近世の数字でも、1人の頭領に率いられた人数はおよそ20〜30人であるから、このときの動員は数百名と考えられる。

 

 たしかに北陸道では平氏軍はいったんは敗れた。5月には木曽義仲軍に敗れ、7月には京都を捨て、西に走った。だから、元来こんな杣のような(弓箭刀兵をもたない)非戦闘員にも頼らねばならないくらい平氏は軍事的にも追いつめられていたと説く研究者もいる。

 

 しかし、読者はお気づきだろう。平氏軍はとりたてて戦闘員不足に悩んでいたわけではない。杣たちに期待したのは、その木工、土工能力ではなかったのか。
『玉葉(ぎょくよう)』という九条兼実(くじょう・かねざね、1149〜1207年)の日記によれば、北陸道には公称4万騎の軍勢を送っている。もちろん、大げさにもいい、人を騎という慣例があるから実際には騎馬兵は3〜4000人くらいだろうか。そうしてその後も、備中国では木曽義仲軍を、播磨国室山では源行家軍を破っているのだ。

 

城郭建設を担わされたのは誰か?

 

 1181(治承5)年3月13日の『吾妻鏡(あづまかがみ)」には次のような記述がある。

 

「安田三郎(義定・よしさだ)の使者武藤五(むとうご)が遠江(とおとうみ・静岡県西部)国より鎌倉にやってきた。その言うところは、主の安田は御代官(おんだいかん・頼朝の代理)として遠江を守り、平氏軍の襲来を待っています。橋本(はしもと)に要害を築こうとして人夫を集めました。ところが浅羽荘司宗信(あさばのしょうじ・むねのぶ)や相良三郎(さがら・さぶろう)らは、この命令を素直に受けず、協力しようとしませんでした」

 

 安田義定(1134〜1194年)は甲斐国(かいのくに・山梨県)源氏の出身で、この富士川の合戦後、遠江国守護に任じられた。浅羽荘は静岡県磐田郡にいまも町として残る。遠州灘(えんしゅうなだ)に臨む場所である。橋本は静岡県南西部、現在の新居(あらい)町の東端にあった。この地名は浜名橋に由来する。旧東海道の要地だった。相良という地名も、江戸時代に田沼意次(たぬま・おきつぐ)が3万石の大名となり、城を築いたところで記憶されているかも知れない。現在の静岡県中南部で駿河湾西端の町である。この相良氏も浅羽氏も後に頼朝に服従する。このときは、まだ様子見だったのだろう。

 

 この人夫の召集は他の記録にもある。「近隣(きんりん)の者共(ものども)駆り催(もよお)して・・・」と多分に強制的なものでもあった。

 

 とはいえ、実際のところ、給与はどうしたのだろうか。川合先生は周防国(すおうのくに・山口県東部)得善(とくぜん)・末竹(すえたけ)保地頭筑前家重(じとう・ちくぜんいえしげ)の「城郭」構築のときの記録を出しておられる。

 

 1187(文治3)年2月、家重は訴えられている。周防国在庁官人(ざいちょうかんじん・国府の役人)の報告書である。

 

「東大寺再建のための材木伐りだし人夫の食料ために用意し、国の官庫に保管しておいた米40余石(およそ6トン)を無理やり奪った。その米を運び出し、近隣の農業をしている人々を集めて支給し、城郭を掘り進めている。毎日のように鹿狩りや鷹狩りをして、院宣(いんぜん・上皇の役所からの命令)を何とも思っていない。このように、官のものを奪い、食物(働かせる給与のこと)にして悪を平気で行っている」

 

 まさに御家人・地頭の横暴である。鹿狩り、鷹狩り、どちらも狩りとはいうものの、実態は規模の大きな軍事訓練だった。2つの保(荘園、あるいは後世のムラ)を武力で実質支配している地頭ならではの行ないだろう。ただ、注意すべきは、このとき家重も決してタダで農民を追い使うわけではないことだ。

 

 よしんば非常時であっても、余分な食料(食べるものとは別に余分に換金したり、物々交換できたりするコメなど)を与えなければ、民衆も働かない。だからこそ家重も官庫を破るという大罪を犯してまで働く農民にコメを支給しなければならなかった。農民も武力で脅かされた弱い立場という浅い解釈では当時の実態に迫ることはできない。

 

野戦の戦闘工兵隊

 

 遠征軍にも工兵隊の編制があった。1189(文治5)年の奥州合戦では、『吾妻鏡』にやはり、次のような記述が残っている。

 

「夜になってから、明日の明け方に(藤原)泰衡(やすひら、1155〜1189年、奥州藤原氏の当主)の部隊の前線を攻撃することを、頼朝は各部隊長に命令した。そこで畠山重忠(はたけやま・しげただ)は元から引き連れてきた疋夫(ひっぷ)80人を呼び、用意してきた鋤(すき)鍬(くわ)を使って土石を運ばせ、前面の堀を埋めさせた。これで人馬も面倒なことが無くなった』」

 

 このような野戦で活動する後世の工兵隊は、当時では「足軽(あしがる)」とも呼ばれていた。北陸道の火打城合戦でも、「足軽共を派遣して柵を伐り倒した」とあり、一の谷合戦でも生田森(いくたのもり)の城郭で、「足軽共に逆茂木を除去させ、梶原隊の500騎が突進した」とも描かれている。ただし、これはみな後世に完成した資料であり、同時代の記録には登場しない。おそらくのちの南北朝期の戦いの『太平記(たいへいき)』頃の足軽という名称が使われたのかもしれない。

 

弓箭刀兵を帯びる者だけでは無理だった戦争

 

 現在も前線で戦う将兵と後方支援にあたる者たちの比率はおよそ1:3あるいは4といわれる。進んだ軍隊であればあるほど、後方の兵站業務を行なう者の比率はあがる。そして最前線でも、建設工兵(橋梁や鉄道、道路整備など)や戦闘工兵(前線で野戦築城にあたる)にあたる役割をはたす将兵はいなくなっていない。

 

 当時も戦闘の主役をなしていた騎馬武者やその周囲の兵卒だけでは、戦争はできなかった。兵糧や馬糧を運び、武器の補充や補修にあたる者、馬の世話をする者がいた。そして、戦える環境をつくる、敵の逆茂木を引き抜き、堀を埋め、柵を引き倒し、矢倉を倒すといったことは武士ではなく、専門の人々がいたのである。

 

 鎌倉軍(源氏連合軍)もまた同じように人々を集め働かせたことだろう。興味深いと川合氏が指摘するのが、春日大社領の摂津国垂水東(せっつのくに・たるみひがし)・西牧(にしのまき)の住人の動員である。垂水牧は1183(寿永2)年に春日大社に寄進される前は摂関家領の御牧(みまき)だった。御牧とは高貴な家、朝廷の牧場である。垂水牧は中でも、東国の牧場から朝廷にささげられた馬を、朝廷の「馬寮(めりょう)・馬を管理する役所」や摂関家から預かって管理・飼育する特設牧場だった。現在の神戸市垂水区にその地名が残っている。

 

 この本来の領主である春日社の宮司が、御白河院庁に差し出した上申書がある。1184(寿永3)年2月に起きた事件になる。

 

「(一の谷の合戦に向かう)道筋であるゆえに、平氏を追討する軍(鎌倉軍)が西に向かう時、雑人(ぞうにん)が御牧に乱入して、保管米を奪い、住人たちを傷つけました。もう神様の威光も何もあったものじゃありません。つづいて軍役や兵粮米も徴発するといいます。御牧の住人はみな神人(じにん・神社に所属する者)ですから、いったいどうして自分たちの神に仕える装束(しょうぞく)を脱ぎ、甲冑(かっちゅう)などを着けましょうか。そういうものではありません」

 

 この乱暴については状況証拠から、梶原景時(かじわら・かげとき)の指揮する部隊だということが想像できる。2月4日に、垂水牧の近くの勝尾寺(かつおじ)が財貨を略奪され、住民は暴行を受けた。そのすぐ近い日には、興福寺領吹田荘(すいたのしょう・現在の大阪府北部吹田市)が「追討使梶原平三景時(かじわらのへいざ・かげとき)」が大将だという兵たちに乱入され、同じく暴行・略奪を受けていた。

 

 勝尾寺の襲撃については、『平家物語』にも記録されている。景時は進撃の途中、民衆が勝尾寺に「物を隠している」ということを聞いた。「ほの聞きて」と味のある文章である。さっそくに兵を送って責めあげたら、老いた人も若者もみな逃げ隠れた。三衣一鉢(さんえ・いっぱつ)を奪うだけでなく、たちまち寺にも火を放った。衣類をはぎ取られた僧は100人あまり、抵抗した1人の老僧は殺されてしまった。

 

 景時は戦闘指揮官でもあったが、同時に「追討使軍」全体の兵站監(へいたんかん)でもあったのではなかろうか。後方で物資を集める。とりわけ兵粮と馬糧を確保することが任務だったのではないだろうか。さらに牧に侵入し、神人(じにん)たちを集めようとしていたことも重要である。

 

 馬の自由な行動を妨げるための設備は、柵と空堀、土塁である。牧の人々はそうした工事に慣れていた。また同時に、馬の扱いにも慣れていたことが大切だ。

 

馬を殺す軍隊は弱い

 

 数百年後の近代陸軍の話になるが、東北、九州の師団は強いといわれる。逆に東京・大阪などの師団の兵は弱かったともいわれる。よく県民性の話になるが、東北人は粘り強く、九州人は隼人の血を引くからなどと評判された。わたしのような東京人ははなはだ辛い。東京人のような都会者は口だけで粘りがない、大阪人は計算高くて弱虫だなどといわれる。

 

 しかし、馬への馴れはどうだろう。東北は馬の産地で、九州もまた馬には馴染がある所であるはずだ。幼いころから馬に近い環境で暮らしてきた人々と、競馬ぐらいでしか馬を見たことがなかった都会人。これが同じように馬を世話したら、どういう差が出るだろうか。

 

 陸軍の機動力のほとんどが馬に頼ったのが当時の実態である。歩兵隊にあった重機関銃も、本体、替銃身、手入れ用具、何より弾薬箱は馬が背で運んだ。戦時に動員された未教育の人が、同じく未訓練の馬を渡されて、きちんと世話ができたかどうか。マニュアルもあったし、それなりの教育もされただろう。しかし、現場は戦場である。馬が倒れれば、人間が、兵隊が重い歩兵砲も分解して背に負って運んだ。

 

 簡単に馬を殺してしまう都会の師団は、すぐに機動力を失ったのである。

 

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2018年(平成30年)8月22日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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