陸軍経理部(25) ―軍馬の話(11)―

荒木肇さんの最新刊

脚気と軍隊

森鴎外は無能な軍医だったのか?
日本軍の脚気問題は現代日本の縮図!
知られざる脚気問題の苦難と栄光の歴史が、ここに明らかに!!
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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ご挨拶

 

 夏至も過ぎて、意外や梅雨も明けそうな気配ですが、ときどき激しい寒暖の差があります。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。近畿地方の方々、地震の被害について心よりお見舞いを申し上げます。また、亡くなられた方々にはお悔やみを申し上げます。

 

 地盤がゆるんだところへ雨が降ります。ご家屋はいかがでしょうか。少しでも早く、ふだんのお暮しに戻れますように。

 

 さて、先週の20日(水)、NHKのBSプレミアムで『偉人たちの健康診断−森鴎外の潔癖症』が放映されました。せんだって、お二人の制作会社のプロデューサーの方々からいろいろ質問をいただきました。拙著『脚気と軍隊』の主張を中心にお答えをしました。おかげさまで、森軍医総監の脚気対策については、日露戦後に研究委員会を立ち上げ、大正時代を通じてその運営も積極的に推進したこと、ビタミンの関与の証明については、潔くそれまでの自説を撤回したことなど、再評価をきちんとしていただけました。

 

 残念だったのは、やはり軍隊には関心が薄い、あるいは知識の少ない、国文学系統の大学の先生をゲストに招かれたことです。まあ、番組のねらいの中心が、決して脚気問題ではなく鴎外の食生活でしたから仕方もありません。そして、もっとも残念だったのは、わたしの著書について片言もなかったことでした(笑)。そんなものなのでしょう。

 

 さて、今回は古代国家の騎兵ということで、優秀な弓射騎兵だったエミシ征討についてです。

 

蝦夷(エミシ)の征討

 

 律令国家にとって不都合な集団が、東国よりもっと遠く陸続きの先にいた。律令の定めた秩序に従わず、勝手な暮らしをし、租税や賦役も納めない。いまの関東北部から東北地方を中心に、都人(みやこびと)から見れば、そうした「不逞(ふてい)のやから」がいたのである。都人は、彼らを蝦夷と書き、えみしと読んだ(えぞとも読む)。その字を見れば虫へんのエビと、人ではあるが野蛮人を表す夷と書く。

 

 古代中国人が、わたしたち日本列島に住む者を「東夷(とうい・東海にいる野蛮人)」と呼んだ。それと同じである。自分たちを世界の中心として、そこからの隔たりをいう。ついでにいえば、南は南蛮、西は西戎、北には北狄。中華思想である。その真似をして、古代律令国家でも東の「夷」ということだろう。自分たちは文明の中央にいると信じる人間の価値観だが、当時はそれが常識だった。

 

 いまも東北地方には、「三陸海岸」という地名がある。青森、岩手、宮城の3県にまたがる太平洋岸の、独特な小さな半島がつらなる鋸(のこぎり)状の海岸地形になる。これがリアス式海岸といわれ好漁場だと習った。その三陸という名の起こりは3つの陸がつく国名からできた(ただし、明治元年に陸奥国から分かれた)。陸奥国(むつのくに・青森県と岩手県の一部)、陸中国(岩手県の大部と秋田県の一部)、陸前国(宮城県の大部分と岩手県の一部)の3カ国のことである。

 

 明治元(1868)年、このとき、広大だった陸奥国は陸中、陸前、磐城(いわき・福島県東部から宮城県南部)、岩代(いわしろ・福島県西部)に分けられた。

 

 現在の福島県から山形、秋田、岩手、青森の各県を陸奥(みちのおく)とし、「陸奥(むつ)国」としたのは7世紀中ごろの大化の新政からである。同時に「越(こしの)国」が置かれたことも記憶しておきたい。いまの北陸地方である。のちに、越前・越中・越後の3つの国に分けられた。

 

 しかし、陸奥国の領域は、せいぜい宮城県南部まで、同じように越国は新潟平野の南端ほどまでだった。その外側に暮らす人々を当時は、蝦夷(えみし)と書いた。この稿ではあくまでも軍馬の歴史、騎馬兵の歴史を語る。そこで文化的、あるいは歴史学的に深入りはしたくない。そこから、これより後は律令体制に敵対し、のちに馴化(じゅんか)させられていった人々をエミシと表記させてもらう。

 

 エミシは多様な文化と生産技術をもっていた。山間部や海岸部では、縄文文化の系譜をひく狩猟や漁労、採集をし、川の下流の平野部では、西日本の弥生・古墳文化を受け入れて稲作も行なっていた。それらの地域、人々に、律令体制に屈服していくことを中央政府は強要していった。それがのちにいう「蝦夷征討」になった。

 

城柵(じょうさく)の役割と施設

 

 陸奥では7世紀後半、8世紀初め、同後半、9世紀初めの4段階で「征討」は行なわれた。現在の岩手県盛岡市付近まで、支配地は広がっていった。越後(えちご・新潟県全域、ただし佐渡は除く)と出羽(でわ・山形、秋田両県・ただし明治元年に羽前・羽後に分割)でも同じように4段階を経て、秋田市付近まで領域は拡大していった。

 

 陸奥・越後・出羽の各国の辺境では、服属しなかったエミシがいた。当然、政情は不安定になり、支配を確定するために城と柵(さく)が築かれた。たとえは少し違うが、アメリカ先住民と騎兵隊の砦のようなものである。城柵の周囲には、他の地域(主に東国とされた関東や中部、北陸、そして福島県南部)から強制的に移民させた「柵戸(きのへ)」を定住させて、郡(こおり)を設ける形式をとった。城柵には城司(じょうし)が駐在し、軍団兵士や鎮兵(ちんへい)などの軍隊が駐屯した。周囲の柵戸(きのへ)を守り、帰順したエミシも保護し、少しずつ支配地を広げて行った。

 

 城柵の施設は、平地にあるものは、郡山(こおりやま)遺跡(福島県郡山市)、胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城、徳丹(とくたん)城(岩手県紫波郡矢巾町)などである。丘陵にあるものとしては、有名な多賀(たが)城、桃生(もむのう・宮城県北部河北町)城、宮沢遺跡、秋田城などが挙げられる。それぞれに特徴があって、平地にあるものは正方形の敷地となり、丘陵地にあるものは不整形であった。

 

 城柵の中には国府と同じような政庁が設けてある。政務や儀式や宴会が行なわれた。城司はそこで降伏したエミシの服属を誓う儀礼も行なった。外周は柵木塀(さくぼくべい)、築地塀(ついじべい)や土塁(どるい・盛り土された高地)で囲んであった。エミシの攻撃に備えるためである。

 

奥六郡の成立

 

 坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ)の父、苅田麻呂(かつたまろ)が「恵美押勝(えみのおしかつ)の乱(764年)」で反乱軍の将(押勝の息子)を馬上から射殺したことは前回に書いた。坂上氏は「家柄は弓馬をもっぱらにして、馳射を善くした」と書かれている。先祖代々、武士(技能としての軍事を修めた人)として評価の高かった人だった。

 

 田村麻呂は758(天平宝字2)年に生まれ、780年、近衛将監(このえしょうげん)に任じられた。近衛府の三等官であり、従六位上、堂々たる将校である。これは父親がすでに高級官吏であったために、蔭位の制(おんいのせい)という優遇措置のおかげでもあった。身長は5尺8寸(175センチ)、胸の厚さが1尺3寸(40センチ)もあり、腕も長く、長い矢も射ることができたという。

 

 791年、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の下で征東副使(せいとうふくし)に任ぜられた。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になってのち、802年には胆沢(いざわ)城(岩手県奥州市)を築き、翌年には志波(しわ)城(岩手県盛岡市西郊)へ前進する。鎮守府をそれまでの多賀(たが)城から胆沢城へ移す(804年)。田村麻呂の活躍については、有名なアテルイの乱やその鎮圧、都への護送などの興味深い逸話も多いが、今回は割愛する。

 

 陸奥の情勢は、805年には一応の落ち着きも見せたが、811年にはエミシの反乱に応じて、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が兵2万6000を率いて、爾薩手村(にさてむら)、幣伊村(へいむら・両方とも現在の岩手県東部の広大な地域)に侵攻した。

 

 綿麻呂は765年生まれ、平城上皇(へいぜいじょうこう)に仕えていて、810年の「薬子(くすこ)の変」では逮捕されてしまった。それを坂上田村麻呂が「武芸の人であり、実戦経験が豊富だ」ととりなした。ただちに田村麻呂と同行し、上皇が東国へ逃亡することを阻んだ。田村麻呂を恩人とし、東北経営の方針も引き継いでいった。

 

 この侵攻と平定で、「志(斯)波三郡(しわさんぐん)」といわれた和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・志波の3つの郡が置かれた。現在の岩手県西南部にあたる。これで軍隊は引き上げられ、鎮守府の多賀城、胆沢城より南にだけ常駐するようになった。この鎮守府は、鎮守将軍(のち鎮守府将軍)をトップとする。

 

 そうして陸奥の北半分は鎮守府が管轄し、南半分は多賀城の国府が治めることになった。北方は武官をトップにして占領軍による軍政をしいたのである。陸奥の北半とは、志波三郡に磐井(いわい)、江刺(えさし)、胆沢(いざわ)の三郡を加えた六郡をいう。鎮守府の運営や施策にはエミシ系の豪族を多く働かせた。のちには奥六郡(北の岩手郡を加え、南の磐井郡を除いた)といわれる行政区分が生まれた。

 

 それにしても狩猟民の伝統があり、馬上からの騎射が巧みだったのがエミシ軍だった。歩兵隊と少数の弓射騎兵しかいなかった征討軍も苦戦を続けざるを得なかった。「エミシの1騎は平人(へいじん)の10人によくあたる」ともいわれたほど、エミシの弓射騎兵は戦いに強かった。これに立ち向かうには、征討軍としても騎射の技術に優れた者を集めるしか手段はなかったのである。

 

鎮守府将軍

 

 陸奥の情勢は落ち着かなかった。武装した俘囚(ふしゅう)の反抗と、移民させた東国の住民たちの逃亡がしばしば起こった。俘囚とは同化して、ふつうの農民化したエミシをいう。その同化の程度が浅い者たちは夷俘(いふ)と呼んで区別し、東国へ送った。

 

 一応は同化し、口分田を耕しているはずの俘囚である。それがしばしば反抗した。朝廷は援軍を送り、強力な指揮官を送り込もうとした。それが鎮守府将軍というポストである。

 

 近衛府の上級官人には兵学を修め、実兵指揮の経験が豊かな者がいた。田村麻呂や綿麻呂がその代表でもある。彼らの子孫には近衛少将となり、陸奥国司(むつのこくし)や按察使(あぜち)に任じられる者も出た。按察使とは特に定められた国の国司であり、同時に近隣の諸国の行政を監察する役目をもっていた。そうした立場を得て、近衛大将に進む。公卿(従三位以上の高級貴族)にあたる武官である。鎮守府将軍はそうした未来を約束するポストでもあった。

 

征夷大将軍

 

 のちに武家最高の地位、日本中の武士の最頂点、統率者にあたると思われていた征夷大将軍という職はこの時期に生まれた。のちに源頼朝が就き、源氏は3代にわたって鎌倉で権勢をふるった。4代からは親王が任ぜられて将軍位をついだ。続いて、同じく源家の血をひく足利氏の室町幕府が15代、そして徳川氏も15代にわたってこの将軍職をひきついだ。

 

『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記述から、エミシ征討に関する記録を見てみよう。
(1)709(和銅2)年 陸奥鎮東将軍 越後方面には越後蝦夷将軍 征蝦夷将軍 征狄(てき)将軍 (副将軍1)※「狄(てき)」北に住む野蛮人である。
(2)720(養老4)年 持節(じせつ)征夷将軍 征夷将軍(副将軍1、軍監・ぐんげん3、軍曹・ぐんそう2) 出羽には持節鎮狄(ちんてき)将軍 同じく鎮狄将軍(軍監2、軍曹2) 
(3)724(神亀元)年 持節大将軍 征夷持節大使(副将軍1、判官・じょう8、主典・さかん8) 出羽には鎮狄将軍(軍監・ぐんげん2、軍曹・ぐんそう2)
(4)737(天平9)年 持節大使(副使2、判官4、主典4)
(5)780(宝亀11)年 征東大使 持節征東大使(副使2、判官4、主典4)歩騎数万 出羽には出羽鎮狄将軍 鎮狄将軍(軍監2、軍曹2)
(6)783(延暦2)年 持節征東将軍 
(7)788(延暦7)年 征東大使 征東大将軍 征東将軍 持節征東大将軍(副使4)
(8)791(延暦10)年 征夷大使 征東大使 征夷大将軍 征夷将軍(副使4)
(9)797(延暦16)年 征夷大将軍 征夷将軍(副将軍等)
(10)804(延暦23)年 征夷大将軍(副将軍3、軍監8、軍曹24)
(11)811(弘仁2)年 征夷将軍(副将軍3、軍監10、軍曹20)征軍1万9500余人
(12)813(弘仁4)年 征夷将軍

 

 征討軍の統率者が将軍である。将軍は「常置の官」ではなく、臨時の官にすぎない。そのために「職員令(しきいんりょう)」には記載がなく、名称は統一されていなかった。「持節」というのは、天皇から「節刀」を授けられる勅任官をいう。出征する軍隊の指揮権、人事権、賞罰権を天皇から委任された。

 

 古今東西と言っていいが、この軍隊指揮権とそれに伴う人事権、賞罰権は将軍に与えられた最大の権力だった。現在の自衛隊でも、旧陸軍でも、指揮官に「かしら右・中・左」の号令が存在する。これはナポレオン軍からの伝統だという説もあるが、全将校下士官兵が、最高指揮官の顔を確認する儀式だったようだ。だから、主計中将だろうと軍医少将だろうと、軍隊指揮権がない人には、この敬礼は行なわなかった。現在の自衛隊では、こうしたことがなくなった。将官にはその職種を問わず、「かしら右・中・左」をともなう栄誉礼を行なっている。

 

 それはさておき、上記の年表を見ると、不思議な事に気づく。
 780(宝亀11)年の5月16日の条である。『今、征東使ならびに鎮狄将軍をつかわし、・・・』とあり、793(延暦12)年には『征東使をあらためて、征夷使となす』という記事がある。

 

 また、2通りの表記があったことにも気づかれるだろう。1つは「将軍、副将軍、軍監(ぐんげん)、軍曹(ぐんそう)、もう1つは「大使、副使、判官(じょう)、主典(さかん)」である。どうもこれらは区別する必要はないらしい。それは同じ軍隊の中でも混用されているからである。(3)(7)(8)がそれにあたる。

 

 征討軍は、臨時に反乱の鎮定という公事(くじ)で使(つかい)に出るから(公式令の京官出使条)、本来は何某使というべきで、そのとき、征討使の幹部は「大使、副使、判官、主典」としたのだろう。そのまた一方で、征討軍の編成については、「軍防令将帥(しょうすい)出征条」によることになる。そうなると、「将軍、副将軍、軍監(ぐんげん)、軍曹(ぐんそう)」という武官幹部の構成になったのだろう。

 

 大将軍とは「三軍を統(す)べる」とされていた。3軍とは1万8000〜2万5000の部下をもった。大将軍の下には将軍が3、副将軍が4、軍監が4、軍曹が10、録事(ろくじ・軍曹の下)8が定員として従っていた。

 

 次回は、この臨時の征討軍の軍人たちの官位などから分かること、坂上田村麻呂の事蹟について詳しく調べてみよう。

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2018年(平成30年)6月27日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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