陸軍経理部(7)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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ご挨拶

 

 大人気ない話ながら、なんとも隣国で開催されているオリンピックに、いまひとつはまれなくて困っています。とはいうもののわが日本選手団の活躍や、敢闘精神にはひどく感動しているところです。また、話題にもありましたがスケートの羽生選手が、プレゼントされた品物を床上に並べたときに「国旗は下に敷けないから誰か持っててください」と言われたとか。立派な態度だと感銘を受けました。

 

 今回もお便りをありがとうございます。FR様、わたしの言葉にしっかり賛同していただき感謝に堪えません。しかも「国士」とは、あまりのお褒めの言葉に言うべきこともありません。ありがとうございます。これからも奮闘努力いたします。

 

(笑)様、お父上のご病状が心配ですが、いかがですか。たしかにわたしも含めて粒食が日本人には合っているのでしょう。うどん、すいとん、ラーメンにいくらでも粉食がありますが、やはり白米の美味さには勝てないようです。わたしの亡父なども兵隊生活がありましたが、やはりパンでは腹持ちが悪かったし、餅も駄目だったななどと言っておりました。どうぞ、お大事になされてください。

 

 

「陸軍給与令」の変遷

 

 1873(明治6)年には「陸軍給養表」が制定された。それまでの明治4年7月に規定された「陸軍給俸定則(兵部省)」から一歩進んだ内容だった。それは「給俸」からさらに限定された「給養」という言葉になったことからも分かる。

 

 明治4年の給俸はその言葉通り、給料と食料を合わせた規定である。「上等士官(尉官・上長官=佐官・将官)」は年俸が規定され、それを月割りで支給された。さらには兵科別に「増俸」といわれた手当てが月ごとに出され、その中から自由に食費を出していた。

 

 当時、下等士官といわれたのは曹長、権曹長(ごんのそうちょう)、それから4等に分かれた軍曹である。この下等士官が縮められ、のちに下士、さらに昭和時代に下士官といわれるようになった。この曹長、権曹長と1〜4等までの軍曹には日給が出された。そして別に「食料」として現金が渡された。

 

 1等から3等までの伍長や、1等兵卒、2等兵卒には日給とともに、1日6合の白米と副食の現品支給が行なわれた。

 

 興味深いのは、俸給が「円、銭」ではなく「両」や「文」といった旧制度を引き継いだところである。もっとも、新しく円・銭・厘(りん)といった10進法によるとした『新貨条例』は同年の5月10日(新暦では1871年6月27日)の公布だった。そのため、間に合わなかったのではないか。

 

 史料の通りに、一部を引き写しておく。大将は1000石、中将が600石、少将は420石、大佐は1560両、少尉が288両となっている。このころの大将は西郷隆盛だけであり、1石=1両という江戸期の換算では1000両となるので、大佐が多くなるからこれはおかしい。おそらくほんとうの1000石相当の米を現金に換算して支給したのではないだろうか。

 

 物価換算では、明治5年には1石が5円40銭という数字がある。すると1000石は5400円となり、妥当な金額になったかも知れない。では大佐や少尉の両はどうだろう。似た数字では手元の美濃大垣藩の常備兵の「仮兵制職等表」がある。そこでは大尉が「朝廷官位正七位」とあり、「當(当)藩職等」では正四等とされ、月給は20両である。少尉は15両だから年俸は180両、中央政府軍少尉の288両と比べると低いようだが、廃藩置県がされる前の地方軍だから仕方なかったのだろう。

 

 下等士官は曹長が日給250文、30日として月給7500文。権曹長は日給217文、月給で6510文、これに5両の現金が渡されて食料を自弁していた。こうなると訳が分からない。大垣藩では曹長は欠員で、朝廷官位の正9位とされた権曹長が月給5両である。すると単純に考えて中央軍の権曹長のおよそ6500文は5両の4割増しと計算して、7両くらいに当たるかと考えられる。

 

 では兵卒であった当時の1・2等伍長や、1・2等兵卒たちはどうだったか? すべて日給で、1等伍長は92文(月給は2760文)、以下だんだんに減って2等兵卒で50文(同前1500文)となっている。ただし1日6合の白米と副食は現物支給された。

 

 この時代の下士兵卒はもともと各藩の常備兵だった。したがって、幕藩体制がなくなり、まだまだ藩固有の風習や制度が生き残っていたものだろう。せいぜい調べられるのはこの程度であり、ご研究されておられる方がいたらご教示願いたい。

 

明治6年の「陸軍給養表」

 

 徴兵令による一般庶民からの新兵が入営するようになった。また新しい貨幣制度が始まり、新しい給養表が作られた。ここで目立つのは曹長以下の下士も兵卒もすべて官給になったことである。上等士官以上は依然として食料は自弁だった。

 

 米6合と賄料6銭6厘がここで規定された。6銭6厘の算定された理由が明らかになっている。牛肉24匁(もんめ=3.75グラム、24匁は90グラム)が2銭2厘、味噌20匁(75グラム)2.79厘、醤油5勺(しゃく=18ミリリットル、5勺で90ミリリットル)4.5厘、漬物55匁(206.25グラム)5.5厘、魚菜は朝・昼・夕食を合わせて2銭4厘、薪500匁(1875グラム)5.5厘、茶4分(ぶ=10分の4匁=1.5グラム)0.16厘、鰹節(かつおぶし)1匁(3.75グラム)1.1厘で合計が6銭5.55厘になる。

 

 なぜ、1日に米が6合支給されたか、その算定根拠ははっきりしない。陸軍軍医界の大ボスだった石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)の談話では、江戸時代の一人扶持(いちにんぶち)が1日あたり玄米5合だった。玄米だから白米にすれば1割が減るので(これを搗き減りといった。外皮や糠、胚芽が落ちたので)4合5勺になる。それが明治の新しい時代になって、兵役という重労働を行なう、そこで白米6合がいいだろうということになったという。

 

 もっとも幕末の官軍の戦時給与令ともいうべき御達しによれば、官軍兵士は1日に6合の白米を支給されていたことになっている。反官軍の代表にあたる「幕府陸軍歩兵」の場合も、やはり白米6合の支給が規定されていた。現在の栄養学から見ても、タンパク質まで白米摂取に頼っていた実情、腹いっぱいの「銀シャリ」はカロリー上でも必要だったのかもしれない。

 

明治8年の「陸軍給与概則」以後

 

 興味深いことに、ここに法令で初めて「精米」という言葉が使われた。それまでは「米」というだけだった。賄料が6銭6厘だったことは変わらない。そして、1880(明治13)年になると、賄料が細かく規定された。身分、勤務によって変えられたのである。

 

 まずふつうの下士兵卒は6銭になり、その他には教導団生徒(下士養成学校)、軍楽隊生徒、幼年生徒(幼年学校生徒)、軍馬局蹄鉄工(のちの獣医部蹄鉄下士官)、同生徒、砲兵工廠生徒取締(兵器下士官養成所教員)、砲兵工廠職工生徒(兵器下士官候補生)も同額になった。西南戦争の戦費が重く国家財政にのしかかってきた頃である。

 

 増額されたのは士官生徒(士官学校本科生)が日額8銭になった。また、軍楽隊の軍楽次長(曹長級)以下(一等軍楽手・二等同、軍曹・伍長級)と軍楽学生以下は16銭と待遇がよくなる。同じように電信隊の建築卒と同生兵(新兵)も日額賄いが16銭に倍増した。軍楽隊員は特殊技能者であり、重い楽器なども運ぶ、さらには対外的な活動も多いことから外見的な威容も重視されたに違いない。栄養が悪くてはみっともないともいえる。同じように電信隊員は技能を持ち、電信柱や建造物の建築も担当する。そういった重労働であることも考慮されたと考えられる。

 

 また不寝番(ふしんばん)に上番した者は夜食代として3銭5厘が加えられた。衛兵勤務者には4銭2厘の増加が認められる。そして夜間行軍にも同額が支給された。

 

 1878(明治11)年、西南戦争の戦後処理にあたり、緊縮財政となった。この時の思い出を、陸軍会計監督長で陸軍省第五局長になった田中光顕(たなか・みつあき)は次のようにのちになって述べている。『青山余影(田中光顕伯小伝)』という本に載っている。

 

 なお田中は高知県出身、1843年に生まれ。幕末には同藩の中岡慎太郎の陸援隊に参加、戊辰戦争でも活躍した。岩倉使節団にも参加し海外を回り、西南戦争では征討軍会計部長を務め、陸軍監督長から第五局(のち経理局)長、陸軍少将となる。明治14年には宮内省高官に転身し、要職を歴任。伯爵となる。亡くなったのは1939(昭和14)年と長命だった。

 

『ヨーロッパから帰ってくると、その頃、山縣(有朋)が陸軍卿をしていて、自分に向かって、このごろ陸軍の財政が大いに乱れているから、ドウカ大鉈(なた)をふるって整理をしてもらいたいと懇懇と頼んできたから、自分も承知して、会計の局にあたることになった。そこで自分は思い切って陸軍の整理をやった。小さい例ではあるが、そのころ陸軍では文書の往復に普通1枚の美濃罫紙(みのけいし・やや大型の公文書用の紙)を使っていたが、用向きによっては半紙の紙でことが足りる。それを1枚使うのは無駄だといって、全部これを半紙にしてしまった。また役人に茶を給する必要はない。湯でたくさんだと茶を廃止し、またそのころ兵士1日の茶代(ママ)が6銭6厘であったのを、6銭に削減するといった調子に、大いに緊縮の方法を採ったので部下は大恐慌を起こしたものだ。あの竹橋騒動のことも、他に重なる原因もあろうが、自分の緊少(ママ)方針も多少の動機をなしたものだ。何しろそのころの陸軍省の経費は、わずか800万円であったが……』

 

 と、いかにも成功した維新の志士の自慢話がうかがえる。

 

 竹橋騒動(明治11年8月23日)というのは、帝国陸軍初めての反乱事件だった。西南戦争の恩賞の遅れや、近衛砲兵の給与の減額などを不満にして、兵器を用いて、徒党を組んで暴動を起こした事件である。1日6厘の賄料の減額も、1000人単位の軍隊にとってはけっこう大きなものになった。1カ月で30日として18銭(1人)となり、歩兵聯隊1200名の兵卒なら216円の減額となる。

 

 なお「陸軍武官俸給表(明治11年)」から調べてみよう。砲兵・工兵の1等馭卒が日額支給を平均月額に直すと2円3銭8厘であり、これに賄料が日額6銭6厘なら月に直して1円98銭になる。合わせて4円36銭。これから18銭の節減である。4%あまりの手取り額が減ることになる。ほかに歩兵1等卒は日額5銭だから月収平均1円52銭1厘、同2等卒は日額4銭2厘、月額1円27銭8厘。数が多い下級者ほど減収の幅が大きいことになる。

 

官吏の月給

 

 何といっても「官尊民卑(かんそんみんぴ)」の時代であり、前の封建時代の身分感覚も色濃く残っていたころである。この明治10年代の官吏(かんり)の給料はどうだったかふり返ってみよう。昭和の日本国憲法になるまで、官吏の身分や人事は帝国憲法によって明記されていた。憲法に載らなくなったのは官吏の身分が大きく低下したことになる。

 

 官吏、すなわち文官と武官は高等官と判任官に分かれた。高等官は上から親任官、勅任官、奏任官と3つの身分があった。明治の初め、勅任1等は太政大臣800円、左右大臣600円、参議、陸海軍大将、各省の卿(長官)開拓使長官などが500円、勅任2等中将、各省大輔(次官)、特命全権公使、開拓使次官などが400円、勅任3等は少将、少輔、大警視、弁理公使などが350円(11年に300円)。

 

 大佐は奏任4等といわれ聯隊長などにあたる。減俸されて月額200円、奏任5等の中佐は150円、同6等の少佐が100円、同7等大尉は80円、以下が判任官となるが、のちに改正され少尉以上が奏任官とされた。判任8等中尉は60円、9等少尉が45円、10等が少尉試補40円ということになった。15等官は警察では警部補が12円だった。陸軍では伍長である。

 

兵卒の暮らしはどうだったか?

 

 驚くほどの上下の格差であり、当時の聯隊長は少尉の約4倍以上、現在の陸自の連隊長は3等陸尉のせいぜい2.5倍程度だろう。大将たる陸上幕僚長の給料月額は7号俸で110万7000円といわれるが、少尉の3尉と比べても5倍になるかどうか。明治の初めはざっと11倍にもなった。

 

 さて、兵卒の暮らしである。もちろん、外出の自由もあった。そんな時には気の合った仲間と一杯やり、外食でふだんの憂さを晴らすのは昔も今も変わらない。高級な食べ物では「うな重」だろう。これは江戸時代から高価なものだった。天然ものしかなかったのだから当然である。20銭という記録がある。日給5銭の兵卒ではとても無理だった。

 

 日本酒は上等・中等・並等とあり、いずれも一升(1.8リットル)で4銭5厘、3銭4厘、2銭2厘である。ビールなどは大びんが1本16銭もする上流階級の酒だった。そばは8厘という時代で、これに種ものを載せて食べて1銭、1銭2厘というところ。もちろん、種ものやちょっとした小料理を肴に飲むのも庶民の楽しみだっただろう。そういうところは都会なら必ずあったし、地方でも兵隊屋敷(兵営)の周りにはすぐに簡単な一杯飲み屋はできた。

 

 牛鍋という食べ方は明治以来だそうだが、1人前15銭くらいとされている。これも兵隊にとっては高嶺の花だったかも知れないが、小さな店なら半値ぐらいで食べることもできたらしい。東京、つまり江戸ではすでに幕末期(1850年代)には各町内に1軒は「くすり食い」といった肉食専門店があったそうだ。また、イノシシ肉や馬肉、鶏肉などを提供し、マグロを煮込んだ鍋もふつうにあったらしい。

 

 とはいえ、営内の食事が不味かったわけではない。いまも軍隊の飯が不味かったというのは主に、大東亜戦争中、あるいは日中間で紛争が続いて大動員がされた1937(昭和12)年以降の人の思い出話である。記録に残せた人は文字を使いこなし、不満を書けた人は決して「国民中等」の人ではなかった。逆に多くの「国民下等」の人であった兵卒たちは良かったことは記録に残せなかったのだ。

 

 大正になっても、『おらがエ(家)のアニサはヘータイ行ってきてから、もっと肉を食わせろ、おかずに魚がスクネエッて贅沢になって帰って来て困った』という話が田舎では多かった。

 

 赤坂檜町(現在の六本木ヒルズ)の歩兵第1聯隊の兵卒の明治末期の話もある。
『朝は喇叭が鳴るまで寝てろと言われ、いい純毛の洋服を着させてくれて、革の靴はかせられて、三度の飯は腹一杯白米が食えた。もちろん、麦が混じっていたけど、自分の家よりずっと良かった。おかずもシチュウやらカツレツやら、肉がずいぶん食べられた』
 これは埼玉県の農家の出身兵士である。

 

 次回はぜひ、史料が多く残る大正の兵営の食事を調べてみよう。

 

 

 

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2018年(平成30年)2月21日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


【防人の道NEXT】国民の理解が自衛隊を支える−荒木肇氏に聞く[桜H29/6/28]





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