陸軍経理部(3)

荒木肇さんの最新刊

日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想

「きわめて人間臭い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような気がしました」(元自衛官)
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が絡み合って開発される・・・といった常識がとてもよく理解できました」(経済人)
日本の技術者はどんな兵器を開発し、兵士たちはどんな訓練を受け、戦ったのか?
先人への感謝と日本現代史に熱い思いを抱く、すべての人に捧げます。




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はじめに

 

  陸軍省には1936(昭和11)年8月現在、人事、軍務、兵務、整備、兵器、経理、医務、法務の8局と大臣官房があった。人事局は補任、徴募、恩賞の各課に分かれていた。同じように、軍務局は軍事、軍務、兵務局は兵務、防備、馬政、整備局は同じく戦備、整備、兵器局は銃砲、機械、経理局は主計、監査、衣糧、建築、医務局は衛生、医事の各課で構成されていた。
 これらに戦時色が深まった同13年8月からは「陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)」が加わった。また、陸軍は大組織であり、省に隷属する官衙が多くある。たとえば航空本部、技術本部、科学研究所、軍需審議会、造兵廠、兵器廠(いずれも「陸軍」を冠する)と軍馬補充部があり、他にも千住製絨所、陸軍衛生材料廠、同被服廠、同築城部、同運輸部などがあった。
 前に述べたように、経理局は4つの課に分かれていた。主計、監査、衣糧、建築である。勤務していた人は将校、将校相当官を合わせて、主計課は13人、監査課10、衣糧課8、建築課15人となる。合計で高等武官・文官を合わせると46人だった。
 また下士官や判任文官(属・「ぞく」といわれた)、技手(ぎて・技術職で高等官の技師の下)、嘱託、雇員、臨時嘱託、臨時雇員などがいた。その定員は順に、29、14、119、52人と合計214人にもなった。経理局は全部で260人にものぼる大所帯でもあった。
 これを他の局、たとえば人事局と比べてみよう。人事局は補任、徴募、恩賞の3課に分かれたが、高等官(将校)が31人、准士官以下が162人で合計193人。医務局は衛生、医事の2課制で、軍医官・薬剤官の合計20人と准士官以下25人、合計45人でしかない。ついでに高等官(将校・同相当官)だけをあげておこう。軍務局28、兵務同23、整備同24、兵器同21、法務同5だった。ただし、法務官は当時、武官ではなく陸軍法務官といわれた高等官軍属である。
 話をもどして経理局衣糧課は高等官8人と准士官以下119人の多数を数えた。さすが大所帯の陸軍の暮らしを支える課である。ただ、実務を行なう准士官以下の数の多さを見ると、他の課とは違ってもいることが分かる。
 異色なのは、建築課の15人の高等官の中には軍属である陸軍技師が半数近い7名もいた。陸軍技師とは高等教育を受けた技術者(主に東京帝国大学工学部建築学科などの卒業)であり、堂々たる陸軍高等文官である。官等はもちろん、武官と同じで、高等官3等といわれた大佐クラスから、勅任技師といわれた将官相当の人もいた。

 

 

建築課の職域

 

 陸軍省官制によると、建築課の業務内容は以下の9つに分かれた。
(1)陸軍用地及諸建築に関する事項(ただし、兵務局防衛課、兵器行政本部、航空本部所属のものを除く)。
(2)陸軍用地及諸建築(防衛課所属のものを除く)の規格の統制・・・前同。
(3)国有財産・・・前同。
(4)建築に関する調査、研究及審査・・・前同。
(5)陸軍需品の整備、補給、及検査・・・前同。
(6)陸軍需品の調査、研究及審査・・・前同。
(7)陸軍需品の製造、貯蔵の設備・・前同。
(8)陸軍需品の生産の指導、助成及監督・・・前同。
(9)物品会計及物品会計官吏・・・前同。
 陸軍用地及諸建築の規定の中で、防衛課に属するものといえば、すぐに「要塞」のことと分かる人は、かなり陸軍について詳しい人だろう。要塞とは拠点防衛のために設けられた軍事施設だった。重要な海峡、湾、離島などにおかれた軍隊が火砲などを装備し、駐屯するところである。要塞の築造や兵器などの装備を決め、土地の取得を行なうのは兵務局防衛課の担当だった。
 また兵器行政本部は要塞に備えられた火砲の工事、造兵廠(火砲製造に関わる)に関わることを担任した。造兵廠の内部では経理部建築課の所掌は、兵器貯蔵設備の建築やその管理だけである。火砲を格納する砲廠や火薬庫、整備工場を建てたり、その維持管理をしたりするのは建築課の担当だが、火砲や銃器などの兵器(ただし、航空本部関係を除く)や貯蔵設備(ただし建設や維持管理は経理課)は兵器行政本部の仕事だった。
 では陸軍築城本部とは何をしていたか。これは工兵将校や技師などもいた組織だが、防衛課の決めたことの実行組織だった。主計将校はこれを簡単に、経理局衣糧課と製絨廠の関係だと解説する。企画するところと実行する部署の関係である。

 

建築課の中の5つの部

 

 課の中は5つの部に分かれた。15人の高等官(経理官と技師)はそれらを分担したのである。第1部は全体の統括をした。高級課員、おおよそ主計大・中佐だが、これに庶務がついていた。渉外や文書管理なども行った。第2部は経営、つまり建築予算を担当した。第3部は技術系であり、技師は主にここにいた。第4部は国有財産を主管する。そして第5部は需品や建築材料をうけもった。これは陸軍需品本廠の総括でもあり、東京経理部(三宅坂の陸軍省の中に入っていた)の中の需品関係だけが独立したものといわれる。
 1916(大正5)年に発足した陸軍東京経理部という組織についても書いておこう。まず原則として陸軍すべての組織には経理部が必要だったということだ。人が集まり、物が動けば金が必要になる。もともとそれらの支出入の監督にあたったのが経理部の起こりだった。それでは教育総監部の隷下部隊の会計監督は誰が行なうか。参謀総長の隷下にある官衙や学校のそれや、土地建造物の経営は誰が行なうかという問題が起きた。実は教育総監部や参謀本部には組織に必ず存在した経理部がなかった。
 それではどこが担任したのだろうか。陸軍には師団管区があった。師管の最高責任者は師団長であり、その経理は師団経理部長が行なうことになる。師団司令部には副官部、参謀部、兵器部、衛生部、法務部、それに経理部などの幕僚部があり、経理部長は主計大佐だった。その師管のうち、東京師管(第1師団と近衛師団)の場合だけが特例となり、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のいわゆる3長官に隷属する官衙、部隊の会計事務の監督を第1師団・近衛師団経理部長は行わないことになった(昭和15年)。そこでそれを実行したのが陸軍東京経理部だった。
 誤解が続いているのが近衛師団の兵員徴募であろう。宮城(千代田城=皇居)の守衛にあたる近衛兵は全国から優秀な兵が集められたはずというのだ。たしかに2個近衛歩兵旅団、4個同歩兵聯隊の兵卒はそのようだった。成績優秀、身体健康、地方の信頼される名家の出身者が集められていた。しかし、他の特科隊といわれた騎兵、砲兵、工兵、輜重兵の兵員は東京師団管区から選ばれていたのである。
 なお、戦地にある軍人の俸給に「留守宅渡し」という制度があった。全額、あるいは指定した一部を戦地ではなく、家族に渡す仕組みである。その事務をすべて東京経理部では行っていた。戦争が激しくなると山梨に疎開したという証言がある。

 

兵務課ともめた「エンシャカ」

 

 第3部があつかった国有財産とは何か。ふつうにいう「国の財産」という意味だけではない。広くいえば、兵器や被服も国有財産であって、部隊のベッドも、事務机すべて国も物となる。しかし、建築課でいう国有財産とは不動産のことをいう。土地、建造物、そして船舶もこれに入った。だから厳密には、常識的には動産と思われる船舶、設備機械なども第3部の所掌になる。うち船舶などはとりわけ重要な動産である。
 土地建造物の経営は建築課の所管であり、陸軍大臣の直轄下にあった。そこで始終もめたのが「エンシャカ」だったという。エンは演習場、シャは射撃場、カは架橋場になる。それらの主務は兵務局兵務課であり、トラブルのもととなった。
 架橋(ふつうはガキョウと発声する)場は河川が多く、あるいは橋が整備されていない大陸の地を予想戦場とする日本陸軍にとって大切な訓練場だった。工兵聯隊は平時でも架橋演習をよく行っていた。有名なのは京都市伏見の宇治川にかかる観月橋付近、東京では北区赤羽のそばの荒川の戸田付近など、前者は京都第16師団、後者は東京第1、近衛両師団の架橋の訓練がよく行われていた。工兵大隊、聯隊の駐屯地はたいてい大きな川のそばにあるのもこれが理由である。荒川に近い近衛、第1工兵大隊(のちに聯隊)は北区赤羽に駐屯していた。
『射撃教範の改正があった時でした。最少が400メートル、それが600メートルに延伸したそうです。そのときに四国の演習場で大きな岩盤にぶつかってしまった。おかげで工事が進まないことがありました。いくらでも金をかけていいなら、やりようもあったのでしょうが、それはできない。ところが、兵務課は教範の規定だから絶対に造れという。ただし、金は出さない。そんなときに軍事課予算班は快く金を決裁してくれました』

 

建築課の出番は民間との折衝

 

 土地やその上にある建造物などは陸軍大臣に直隷する経理官の所掌だということは、いろいろな問題を起こすタネになった。それは師団経理部長は師団長の部下でありながら、同時に命令を聞かねばならない相手は中央の陸相であるということからである。師団長はいわゆる直属上官ではないのだ。だから、演習場の廠舎(野外にある簡易宿泊施設)が老朽化しているので、師団長があれはどうにかならんかと言っても、経理部長がうんといい、すぐに工事にかかるというわけには行かなかった。廠舎の所有はあくまでも大臣だからである。
 それはもともと、土地や建造物は地元の住民との間の利害関係が深かったという理由にあった。また、不動産に関わることには複雑、煩雑な法律関係がある。他の物の売買のように、かんたんに片がつくといったものではない。いろいろと紛争の種があった。父祖伝来の土地であって手放したくないといった思い、隣との境界線問題などを引きずることが多かった。民生との関係がひどく多いのである。そこに利権が生まれる余地も生まれ、地方政治家もそこに加わってくる。
 大正時代に、埼玉県の所沢(現在の空自入間基地)に航空隊用地を取得しようとしたときのことである。一面の桑畑や荒れ地だったところが、みるみる耕され、水田のようなものまで開かれ始めることが起きた。陸軍からの買い上げ価格を少しでも上げようと、農民も、それへ金を貸した人も、政治家からの情報漏れで動き始めた結果だった。経理官たちも事前視察にも工夫をした。目立たないように軍服を着ずに、背広などを着ていったという。
 利害関係が多い仕事なので、長引くこともあり、そういうことに関わっていると、親補職である師団長の統帥の尊厳を汚すことにもなるからと経理部では説明している。しかし、大東亜戦争の終末期になると(昭和20年春ころ)、本土が分断される事態も想像でき、軍政上の処置も軍管区司令官の責任によって運用することになった。防衛施設や飛行場建設などでも、直接に兵力を使うようにもなるので、土地建造物の経営の大臣直隷という方式は適切ではないともされ、臨時特例で一時停止とすることになった。

 

主計ではなく建技将校

 

 建技将校を、その建築技術の略称から「技術部」将校とする誤りが多い。しかし、陸軍では土地や建造物は経理部の扱いだったために、建設、建築技術者である陸軍技師、同技手が文官として存在していた。この人たちが1942(昭和17)年に多くが武官に転官して建技将校や建技准士官・下士官といわれるようになった。最高官は中将であり、勅任官だった技師がそれにあたるはずだった。以下、高等文官はそれぞれの官等と同じ、少将から少尉に、判任技手はそれぞれ准尉から伍長に任官した。
 ついでにいえば1937(昭和12)年に主計、縫工、装工准尉以下伍長までは、主計と経技に分けられた。まとめていうと、経理部は経理官である主計将校以下と技術職の建技将校以下に、准士官以下は建技、経技、主計の3系統になったのである。
 技術部については、陸軍は早くから武官にしていた。ただし、砲兵・工兵の兵科将校のままに技術系統の仕事をしていた。技術部が兵技(兵器技術)、航技(航空技術)の2系統にしたのは1940(昭和15)年のことであり、昭和19年には統合されて技術部将校いわれるようになった。
 1939(昭和14)年には陸軍技術候補生の制度ができた。これは海軍の2年現役士官(いわゆる短期現役)に対応するもので、2年間の現役兵役期間のほとんどを技術部将校にして勤務させることができた。幹部候補生からの採用であると、2年後に少尉になって予備役になるが、技術候補生は入営してすぐ技術士官候補生として軍曹の階級に進んだ。そして4カ月後には専門学校出身者は技術少尉に、大学出は技術中尉に任官し、義務年限中はずっと現役勤務になった。人事上も幹部候補生出身者より優遇された。
 建技将校以下ができたのは、文系の主計将校では建物の建築などでも監督ができなくなってきたことからだろう。飛行場の設営や防空壕や航空機用の掩体などの土木工事はもとから工兵の仕事であったが、事務所や兵舎、倉庫などは経理部の担任だから、専門家を武官にする方が都合上よかったからである。
 敗戦時の現役建技将校の数は、少尉から中佐までが合計で685人であり、主計将校の3443人と比べても、その約2割という数を占めた。ついでに技術部将校は6725人と主計将校の2倍にもなっている。陸軍は技術軽視といわれていたが、兵科将校が約2万9000人だから、現役に限って言えば、理系の技術部、経理部建技を合わせればおよそ7400人にもなることが分かる。
 なお建技将校も昭和18年以降の階級表示法の改正により、主計将校と同じく襟章の下に銀茶色の線をつけていた。

 

 

(以下次号)

 

 

(あらき・はじめ)

 

 

 

 

(2018年(平成30年)1月24日配信)

 



著者略歴

荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。 専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。 年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる−学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊『日本軍はこんな兵器で戦った−国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)がある。


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